「ヨーロッパはおしゃれである」、というのは多くの人が持つイメージではないだろうか。一体このイメージはどこから来ているのだろうか。人々は何をもっておしゃれと感じているのだろうか。実際にヨーロッパの一都市であるウィーンに行ってみることで、日本に生まれ育った人間が感じる“おしゃれ”について考えていく。
“おしゃれ”とは言っても、全ての人が同じ感覚を持っていて、同じものをおしゃれだと感じ、同じものをダサいと感じるなどということはありえない。そこで今回は21年間日本で育ち、いわゆる「日本人」の感覚を持った私自身の尺度で“おしゃれ”というものを見ていくことにする。
そのため、ウィーンに行く前に私なりに“おしゃれ”を定義してみた。
私が考える“おしゃれ”とは、「ちょっとした非日常を感じさせるもの」である。いつもと同じものならば、それは生活感あふれる日常にすぎない。日常とは少し違うものが私たちの心の中の何かに触れて、おしゃれだと捉えられるのだと考えられる。
たとえば服でいえば、おしゃれ着とは普段日常的に着るものではなく特別な日に着るものだ。それに、新しく買った服はとても魅力的でおしゃれに見えるものの、何度も着て見慣れてくると、あまりおしゃれに感じなくなったりすることはないだろうか。服以外でもこの「非日常性」がおしゃれにつながることが多いと感じたので、このように定義した。
では、いよいよウィーンの話へ移ろう。まず、この記事と並行して掲載されている何枚かの写真を見ていただいて、あなたは“おしゃれ”に感じるだろうか。
これらは実際にウィーンで私が撮った写真である。世界で一番美しいとされる国立図書館、古くからのバロック建築の荘厳な建物…。写真だけを見ると“おしゃれ”だと感じる人は多いのではないだろうか。私も写真を見返してみるとおしゃれだと思う。しかし、実際に行ってみたとき全ての場所で私がおしゃれだと感じたかというと決してそうではない。
世界一美しいとされる国立図書館
実際に私がウィーンに到着してすぐ感じたことは、閉塞感である。ウィーンにはリングと呼ばれる大きな通りが中心部を囲んでいるが、このリングの中は非常に大きな建築物がたくさんある。高さのそろった西洋風の建物が両脇にずらりと立ち並んでいるのである。
確かに一軒一軒を見れば、日本家屋とは違った西洋風の建物は「非日常」でありおしゃれさを感じるのだが、たくさん並んでいるのを見ると空が遠く見え、到着したばかりの私には息苦しさまで覚えた。さらに、猛々しい彫刻が飾られたバロック建築や尖った屋根が美しいゴシック建築の建物も、実際に近くで見てみると意外と薄気味悪さを感じるものである。
日本ではなかなかこういった建物が立ち並んでいるところは見られないし、私の定義した「非日常性」の部分には当てはまるのではあるが、閉塞感や薄気味悪さを感じるのはこういった建物がたくさんあるからであろう。“おしゃれ”と感じるには「“ちょっとした”非日常性」なのであり、あまりにも非日常であれば理解できず不気味に感じるのかもしれない。
閉塞感のあるウィーンの街並み
同様に写真のかわいらしいカップケーキ屋も、行ってみると不気味に感じられた。
このカップケーキ屋はミュージアムクォーター(MQ)という現代アートの美術館の中にある。ここはいくつかの美術館が集まってできているのだが、美術館、それも現代アートの美術館がいくつも立ち並んで同じ場所にあるというのは日本ではなかなかないのではないだろうか。実際に私は全て見てみたが、1日で周りきるのは非常にハードなことであった。
広さ的なこともあるが、内容がとても疲れるのである。現代アートといっても過激な、日本では展示が躊躇されるのではないかと思われるようなもの(生殖器や死骸をモチーフとしたもの)も多く展示されているのである。思わず目を覆いたくなるような生々しいものを突きつけてくるここの現代アートは、インテリアにコラージュされたりすることもあるようなポップでおしゃれな現代アートとはだいぶ異なるように感じた。
それらの展示の横に併設されているこのとてもかわいらしいカップケーキ屋は、もはや私には過剰に作られたかわいらしさであるように見え、おしゃれというよりかは気持ち悪さを感じた。
不気味な笑みを浮かべるカップケーキ屋の愛くるしい看板
異様に可愛らしいカップケーキ
この不気味さ、気味悪さは一体どこから来ているのだろう。
日本で街を歩いていたり美術館に行ったりしてこのように感じることはほとんどない。それは私が日本で生まれ育った人間であるからだろう。そんな私がウィーンの雰囲気とぴったり波長が合わない理由は、西洋の主張する文化に根ざしているのではないか。
島国である日本と違って大陸であるヨーロッパは、多くの国や文化の人が集まる。そんなたくさんの異文化の中で生きていくためには自分の意見をはっきりと主張しなければならない。相手が言葉にしないことをその場の空気から汲み取る文化が発達している日本とは、根底に流れているものが違うのかもしれないと私も実際にウィーンで感じた。この根本の違いが私に不気味さを感じさせたのだ。
伝統的なバロックも美術館の展示もカップケーキ屋の過剰なかわいさも、なにもかも私にとっては盛りだくさんなのである。ひとつひとつの主張が強すぎて、私は精神的におなかいっぱいというか胃もたれしてしまったのだ。