ウィーンと日本が融合した和カフェ
しかし、ウィーンでももちろん、日本に生まれ育った私が“おなかいっぱい”にならない、心落ち着いておしゃれだと感じることがあった。それは何かと何かがミックスされているものを見たときだ。
たとえばウィーンの伝統的なものと東欧やアジアなどの異文化がミックスされたもの、歴史ある建物をリフォームしてうまく現代的なものとミックスさせている建物などである。何かと何かが混じることで、純粋な混じりけの無いときよりも主張や情報量といったものが薄れ、私でも胃もたれせずおしゃれに感じられたのだと思う。
バロック建築と近代的な光の融合
主張が薄れることで、いわゆる「日本人」の私向けのおしゃれになるという点でいえば、写真もそうである。
先述したように、日本に帰ってきてからウィーンで撮った写真を見てみると、特に違和感なくおしゃれに思えた。それというのも、写真という、現実を切り取って伝える媒体であるからこそ、情報量が減らされ丁度良くなるのではないか。
日本にいる私たちがヨーロッパにおしゃれな印象を持ちやすいのは、このように盛りだくさんな主張が日本とヨーロッパという距離を渡ってくる間に減らされて、ちょうどよい塩梅になって私たちの元に届けられているからなのかもしれない。
ここで、どういったものをおしゃれと捉えるかという“おしゃれ”の定義を見直してみたい。
ウィーンに行く前は「ちょっとした非日常」が関わっていると考えていたが、「自分が理解できるギリギリの範囲のもの」なのだと私は考え直した。日常は自分にとってたやすく理解できるので、“理解できるギリギリ”というのは「ちょっとした非日常」とも言える。しかし、実際に行ってみて一番感じたのは散々述べてきたとおり、ウィーンの少し薄気味悪い部分なのである。
この不気味さ、グロテスクさはおしゃれとは程遠いものだと思っていたが、おしゃれの延長線上にあるものだと私には思えた。なぜなら、ウィーンで不気味さを感じたとはいえ、日本とウィーンで、おしゃれだと思うもののベクトルが全く違うということはないからである。日本でおしゃれだとされるものより、少しウィーンの方が過剰というか、やりすぎな印象を受けるだけなのである。つまり、同じベクトルの中で、おしゃれだと感じる範囲が違うのである。
ウィーンの人たちが理解し許容できるギリギリのものは、日本人の私にとっては少し許容しがたく薄気味悪さを感じてしまう。逆に言えば、私が理解し許容できるギリギリの範囲のものは、ウィーンの人たちからすれば物足りないのかもしれない。
インパクトのあるマネキン
少し過激?なショーウィンドウ
私なりに考えた“おしゃれ”の定義であったが、ウィーンに行く前と後で定義自体はさほど変わっていないように見えるかもしれない。しかし、私の中ではおしゃれと全く正反対だと思っていた、薄気味悪さやグロテスクさという新たな視点を見つけることができた。これは日本にいては決して気づくことのできなかった大きな発見であった。