中国SV

東アジアとイスラーム(1) 二つのモスクから見るグローバル化

榎本友美
人間文化課程 3年

中国とイスラーム、その関係は今から1300年ほど前まで遡る。中国王朝は唐の時代、中東のアラビア半島ではイスラームが生まれた。飛行機も電車もないこの時代でも人々は盛んに異国間交流をした。シルクロードを通って様々なモノ・人が行き来したことは想像に難くない。交流の中では目に見えない知識・概念・技術もまた異国間で伝えられ、溶け込み、時に独自の変化を遂げた。

イスラームもまた、シルクロードを通ったアラビア商人よって中国に持ちこまれたもののひとつである。広州は特に、海のシルクロードと呼ばれる船を使った交易ルートの重要拠点であり、シルクロードが通った長安などと共にイスラームが中国の中で最も早く伝わった都市である。生まれたてのイスラームは中東から遠く離れた中国で着実に根を張っていった。

今回の見学地のひとつである「懐聖寺」というモスクは中国で最も古いモスクのひとつである。モスクは単なるイスラームの礼拝施設というだけでなく、その存在はイスラーム教徒(以下ムスリムとする)が中国に定着していったことも示している。敷地内にある、礼拝の時間を知らせるための塔(ミナレット)はイスラーム建築の特徴であるが、唐の時代からずっとこの街に存在している。懐聖寺の近くには、中国西域地方のムスリムたちが住んでいる地域や多くのハラールフード店もあり、ムスリムが中国という地に暮らしつつもイスラーム的に暮らすことの出来る生活基盤が整っていた。イスラーム伝来当初は、信者はアラブ人がほとんどであった。しかし、現在では懐聖寺を管理しているのは中国人であり、近所に住む非ムスリムの中国人とも交流があるそうだ。アラブの人たちが伝えた宗教ももはや街の一部と化している。時代を経て現在、中国には56の民族が公認されているがそのうち10の民族がイスラームを信仰しており、中国国内には約2000万人のムスリムがいると言われている。

懐聖寺のミナレット

懐聖寺の前にあるハラールフード店

一方で、近年の加速するグローバル化の影響によって中国のイスラームを取り巻く状況も大きく変化している。約5年前の2009年、翌年に広州でアジア競技大会が開かれたことをきっかけとして「先賢清真寺」というモスクが建てられた。このモスクは「先賢古墓」つまり「唐代に活躍したイスラームの聖人の廟」の周りの敷地を買い取りそこに礼拝施設を併設したものである。懐聖寺に比べるとモスク自体の歴史は大変浅い。しかし、中東やアフリカから広州を訪れるムスリムの移民たちの数が増加するとともに、先賢清真寺は信仰の中心地となっていった。

見学させていただいた金曜日、最寄りの地下鉄の駅を降りると白、黄緑、ピンクなどの民族衣装を着た人々、イスラーム帽をかぶった人々を多く見かけた。駅からモスクまでの道のりは、礼拝に向かうムスリムたち、彼らを客とした屋台や物売り、そして多くの物乞いたちでいっぱいであった。金曜日はイスラームにとって特別な日で、モスクなどで集団礼拝することが望ましいとされているのである。この日は、先賢清真寺には約8900人ものムスリムが集まった。

中国人の宗教指導者に先賢清真寺の説明を受ける

礼拝の時刻になると放送がかかり、多くの人で混沌としていた場内も静まり返り一斉に礼拝が始まった。礼拝堂の中に納まりきらず庭にも広がって集まった彼らは、イスラームという同じ宗教を信じ、そして広州という同じ場所にいる。しかし、肌の色、顔立ち、言葉、服装などは様々で、現在のグローバル化の速度と規模を視覚的に再現しているかのようであった。中国、ウイグルだけでなくアフリカ、インド・パキスタン、中東、東南アジアなど様々なところからやってきた人が集まっていた。実際に、広州にいるムスリムは1万人が地元広州、9万人が中国西域地方、10万人が中東、アフリカなどの外国出身である。

中国でイスラームを通して見えてきたこのような様子は街にいるとなかなか分からないが、これほど多くのムスリム、国境を越える人々が広州にいること、そして同時にその人々を受け入れる場所が広州にあるということを気付かせてくれる。広州のグローバル化は唐の時代から続くとても長いものである、しかし一方で時代の波によりその規模は様々である。広州で見た風景は、現在グローバルに勢いを増す「中国」「イスラーム」という二つの要素が合わさったものであると言えるだろう。