中国SV

力行する開拓者たち〜アジアへ渡るアフリカ人〜

大谷里菜
人間文化課程 2年

近年、中国においても日本と同様に、アフリカ人の数が増加傾向にある。中国の中でも「港町」として重要な役割を担う広州ではその傾向が顕著に見られ、アフリカ人街が形成されるなど、多くのアフリカ人が生活を営み、コミュニティを築いている。今回の中国SVでは、広州におけるアフリカ人へのインタビューやアフリカ人街へ訪問し、新たな地で新たな生活に挑む「開拓者」の姿について調査した。また、事前学習として行った日本に住むアフリカ人に関する内容の、Japan Times記者Druex Richard氏へのインタビューと合わせることで、中国と日本に住むアフリカ人コミュニティについて比較、考察した。

ビジネスの開拓者として

日本に移住したアフリカ人は主に肉体労働をして生計を立てている。日本に渡航してくるアフリカ人は、大学卒業してきた者も多くいるが、日本の企業に社員として雇われることは珍しい。自分でビジネスを始めるにしても手持ちのお金がないため、事業を始めることはできない。肉体労働をすることで事業を始めるお金を稼ごうとするが、日本において肉体労働で得られるお金は少なく、稼いだお金のほとんどを生活資金として使ってしまっている。また、余ったお金は故郷に送るため、実質として事業を始めるためのお金は手元に残らない。自分の能力を生かすために、肉体労働者としてではなく、オフィスワーカーとしての就職を目指しているが、現状としては厳しい。大手企業に清掃員などの肉体労働者として勤め、履歴書上に大手企業で働いた痕跡を少しでも残そうとするアフリカ人も多くいるという。

三元里

一方で、中国に移住したアフリカ人は事業を自ら興しビジネスを行うケースが多く、そのほとんどが貿易ビジネスである。アフリカ人街として有名な街である三元里において、ナイジェリア出身で、2001年に来中して以来様々な同郷団体に会長や後援者、役員として所属するAさんにインタビューを行った。彼は広州で貿易ビジネスを展開し、主にナイジェリアへ衣類の輸送・販売を行っている。輸送方法としては、コンテナに衣類を入るだけ詰め込み、香港からナイジェリアへ空輸している。

Aさんによれば、中国の経済発展の兆しを受けナイジェリア人たちが同国に渡り始めたのは1990年代に入ってのことである。ビザなしで入ることが可能であるということや、英語が通じることなど、中国の中でも特殊な環境であるという理由から最初の移住先には香港が選ばれた。いつか故郷へ帰るという思いを胸に出稼ぎ目的で中国に移住した彼らは、1990年代にはその日に食べる物にも困るほどに苦しみながらも、周辺に住む中国人大学生やフィリピン人コミュニティなどに住居や食事の支援を受けながら、香港やマカオを拠点に中国の中古車や電化製品の部品を輸出するビジネスなどで生計を立てた。生活の苦しさのあまり、ほとんどのナイジェリア人がアメリカや朝鮮半島南部、ロンドン、日本などへ移住していったが、口コミで噂を耳にしたナイジェリア人が中国を訪れる数も増加していった。中国残留を決めた人々が家族や知り合いを中国に呼び寄せたことや、アフリカ人男性と中国人女性の結婚によって、コミュニティは広がりを見せた。

Aさんのような貿易ビジネスの他にも、アフリカに残してきた家族との相互的な送金サービスや、アフリカ人向けの洋服の売買など、様々なビジネスが存在する。その理由として、中国の貿易規制の緩さが挙げられる。その点、日本では貿易に関する規制が厳しく、自由な貿易が難しい状況である。そのため中国では日本にはない規模で床屋や倉庫など多種多様なビジネスが展開され、その成長ぶりからアフリカ人が中国人を雇うことや、中国で仕入れた商品をアフリカに安く大量に輸出するというビジネス形態を中国人自身が真似ることも多く起きている。また、日本では製品に良質さを求めると値が張ることは避けられないが、中国では日本よりも質は劣るものの、同じ製品をより低価格で大量生産することが可能であるという点も、中国においてアフリカ人ビジネスが発達した理由の一つであると言える。

このように中国で着実にビジネスを成長させているアフリカ人であるが、中国人の、アフリカ人移住者に対する風当たりが強いことは否定できない。広州では北京などの他の都市と比較してもそれは特に顕著で、数年前にアフリカ人による大規模なデモが行われてからは締め付けがさらに強化されたという。

開拓者たちの「よりどころ」

海外へ移住した者にとって、同郷の人々や同様の思いを抱える人々どうしで構築するコミュニティは、その地で生活していく上で重要な役割を担う。中国と日本、どちらの国でもアフリカ人によるコミュニティが形成されており、それぞれ異なった特徴を見せる。また逆に、中国を訪れたアフリカ人が中国人と国際結婚し、アフリカに一緒に帰ることでアフリカにおいてチャイナタウンが形成されているということもある。

アフリカンレストランの看板

アフリカンコミュニティは中国において広く受け入れられており、日本とは異なり大通りに店を構え、アフリカ人学校などが存在する。日本と同様に同郷団体などが多く存在し、助け合いながら生活を送っている。そのコミュニティの代表的な例として挙げられるのが、教会である。広州においては様々な国籍、民族的背景の人々が集うキリスト教教会の他にも、ナイジェリア人のみの教会が存在している。中国や日本のナイジェリア人教会に限らず、移民である人々を軸に構成された教会は「信仰の場」としての役割と同時に、「生活の場」としてのコミュニティという意味においても非常に重要な役割を担っている。教会のメンバー内でフットサルチームやダンスグループを作っているということもこの一例である。

1990年代後半に中国初のアフリカ人教会が建てられて以来故郷の国別の教会ができるなど、その数を増してはいるものの、いずれも非公認の「地下教会」である。中国政府が容認するキリスト教はカトリックのみで、彼らの信仰するペンテコスタ系は規制の対象になるからである。

広州においてナイジェリア人キリスト教教会の牧師をしているNさんは、今後日本にも進出し教会を建てる予定だと述べたが、日本にすでにあるナイジェリア人教会が日本人への布教に苦戦を強いられている点は見逃すべきではない。その理由としては、日本人が既存の特定の宗教に対して持つ悪いイメージがある。さらに多くの日本人の生活の中に無意識に溶け込んでいる仏教や神道の文化とその他の宗教との間に相容れない要素があることなども理由の一つとして挙げられる。様々な要因によって日本はキリスト教に限らず特定の宗教が根付きにくい環境である。しかし日本への進出は、すでに日本に住んでいる、またはこれから日本を訪れる同郷の人々や同じ信仰心を持つ人々にとっての「よりどころ」としては非常に大きな意味を持っている。