ロンドンにおける発展は地域によって大きな違いがある。それ故、ロンドンのエリアはよく「東西南北」で区別し表される。そしてロンドンにおいて最も貧しい地区といえば東、いわゆる「イースト・エンド」である。しばしば「イースト・エンド・オブ・ロンドン」または「イースト・ロンドン」とも呼ばれる。正式な境界線は存在しないが、ロンドンの中心部東側かつテムズ河の北側の地域がそれにあたる。
今でも移民が多いロンドンだが、特にこの地域には17世紀という早い時期から多くの移民が流入していた。さらに19世紀後半になるとロシアや東欧から迫害を逃れるために東欧系ユダヤ人の移住が大量に増加した。工業地域であったイースト・エンドにおいて彼らの多くは単純労働の人手として働かされ、社会的地位や生活基準の低い状況が続いた。
そんなイースト・エンドにおける貧困状態を改善しようと、19世紀から芸術に力を入れた活動がなされてきた。1884年に、ホワイトチャペル地区に設立されたトインビー・ホールは、世界各地の貧困地域に定住して経済的弱者や被災者に対する生活支援活動を行う、セツルメント運動の先駆けとなった。それは「ロンドンとその他大都市の貧しい居住地に住む人々に教育と余暇、および娯楽を提供すること」を設立目的の一つとし、アートが余暇や娯楽に大きく寄与すると考えられ、芸術教育に力が入れられてきた。
また、ホワイトチャペル・アート・ギャラリーは「東ロンドンにも芸術を」というモットーのもと、1901年に創設された。イースト・エンド初であるこの美術館は、地域住民が一流の芸術作品に触れること、地域住民の芸術活動を支えること、そして移民としてのアイデンティティを、芸術を通して浮き上がらせることを可能にした。
このように、イースト・エンドは芸術文化と切っても切れない関係がある。私たちが訪れたギャラリーなどの詳細については、以下に述べる散策の時系列の中で追っていくこととする。
緑豊かなジェフェリー博物館
1870年前後の英国インテリア
まず初めに我々が訪れたのはジェフリー博物館だ。広々とした庭園に囲まれたこの施設には、イースト・エンドの労働者たちが作った、1600年代から現代までの英国家庭のインテリアが展示されている。11ヶ所のピリオドルームに各年代の家具が展示されており、順路を進むにつれ、時代の変化を感じることができるという展示方法がとられている。イースト・エンドに多く在住していた移民の作品を展示することで、彼らに「移民からイギリス市民へ」という新たなアイデンティティを定着させるのが設立の目的であったようだ。
時代とともに変化してきたインテリアの変遷を間近に見ることができるだけでも面白いのだが、その変化をもたらした時代背景を窺い知れた点が非常に興味深かった。
ケーブル通りの闘いの壁画
ジェフリー博物館最寄りのHoxton St.からShadwell St.まで電車で移動し、次に我々が目指したのは「ケーブル通りの闘いの壁画」である。ケーブル通りの闘いとは、1936年10月4日にイースト・エンドで起こった、英国ファシスト連合(British Union of Fascists、通称:BUF)と現地住民の間の暴動である。反ユダヤ主義を掲げていたBUFが、ユダヤ系移民が多く住んでいたこの地域で行った示威行進に、住民が抵抗する様子を描いたのがこの壁画だ。住民の雄姿を称えたこの壁画は、政府により何度も塗り潰されたが、その度に住民が描き直してきたそうだ。その大きさだけでも圧倒されるが、何度も何度も描き直されたというエピソードを聞いた上でこれを見ると、住民たちの強い意志が表れているようで、非常に印象的だった。
ホワイトチャペル・アート・ギャラリー
続いて我々が向かったのは、ケーブル通りの闘いの壁画から徒歩で15分ほどの場所にあるホワイトチャペル・アート・ギャラリーだ。1901年に設立されたこの美術館は、イースト・エンドの住民による芸術作品の発信の場として機能してきた。また、ロンドンの中でも非常に貧しい地域であったイースト・エンドの住民に対する教育普及プログラムを先進的に行なってきた歴史を持つ。移民たちの文化が色濃く反映された作品を展示し、イースト・エンドから新たな芸術文化を創造するムーヴメントの中心となったのがこの美術館だ。以後、英国における近現代芸術を牽引する役割を担ってきたそうだ。「『創造力』は誰にでもある」と掲げられて設立された背景を象徴するように、絵画作品から映像作品まで、ジャンルに囚われず、様々な作品が展示されていた。また、現地住民と思しき人々のみならず、旅行客も多く訪れているのが印象的だった。写真引用元:https://www.airbnb.jp/locations/london/whitechapel-brick-lane
トインビー・ホール
最後に我々が訪れたのはホワイトチャペル・アート・ギャラリーからほど近い場所にあるトインビー・ホールだ。1884年に設立されたこの施設は、セツルメント運動の一環として設立された最初の施設である。セツルメント運動とは、宗教家や学生などがスラムに定住して、教育・育児・授産・医療など生活全般にわたり、貧困に苦しむ住民を援助する社会事業である。単純な金銭的補助ではなく、彼らと接触する中で、自力による生活の向上、社会的活動への参加を行わせるという「社会改良」を促すのがこの運動の狙いだ。これが具現化された最初の事例が、サミュエル・バーネットを中心に設立された、このトインビー・ホールである。我々が訪れた時間には既に閉館時間となっており、施設内を見学することはできなかったが、この施設は現在も支援事業が行われており、セツルメント運動の象徴的な存在となっているそうだ。
セツルメント運動に端を発して、社会への参加が促進されたイースト・エンドの住民たちが作り、残してきた作品を巡ったこの散策では、彼らの文化や歴史を窺い知ることができた。自分の目で見て、自分の肌で感じて学んだイースト・エンドの歴史や文化は、文章だけで理解している状態に比べて、より強く我が身に定着したのではないかと思う。