このページではパラグアイでの文化について紹介していきたい。
日本で言えば、焼肉やバーベキューのようなもの。
日本ではなかなか見られないような大きな肉をたくさん焼いてみんなでワイワイと食べる。家族でやる、親戚や友達を呼んで盛大にやる、などやり方は様々だが、金曜日や土曜日の夕方から肉を焼き始め、夜の9時10時から人が集まり始めて夜中まで楽しむことが多い。アサードにはアサード専用の大きな窯があり、驚くことにパラグアイでは各家庭にその窯が1台あるのが普通だそうだ。家庭によっては毎週末アサードをしている家庭もあるという。
アサード。
パラグアイの伝統的な食べ物で、パイのようなものを油で揚げてある。具には卵、牛肉、チーズ、ハムなど、いろんな種類があり大変美味しい。
日本でもよく見かけるようになったマテ茶。パラグアイにおいてマテ茶は日常生活に欠かせない飲み物である。少し驚きかもしれないが、マテ茶の正式な飲み方は、おしゃべりを楽しみながらひとつのコップをみんなで回して飲むというものである。こうやって飲むことで絆を深め、みんな仲間だという証が生まれる。町のいたるところに、マテ茶の道具が、そしてスーパーには大量の茶葉が売られている。パラグアイでは毎日のように飲まれ、この時間が生活の一部となっている。冷たいマテ茶は「テレレ」と呼ばれ、下の写真のような容器に入れて、持ち歩く。
街角に並ぶテレレ。
マンディオカはパラグアイでもよく栽培されている芋である。枝は細いが、強い生命力を持つため、枝から生えた新しい芽に土をかぶせるだけで育つ。ふかしたり、揚げたり、粉にして伝統料理に使用したりと、日常の食卓に欠かかすことのできないものである。よくふかしたマンディオカと味の濃いお肉を一緒に食べると大変美味しい。
パラグアイでよく目にするのがこのアルパと呼ばれる楽器。アルパはスペイン語で「ハープ」を意味する。アルパはパラグアイの伝統的な音楽を演奏するときに用いられる。何本もの弦を弾いて、重層的なメロディーを奏でることができる。日本でも公演が行われているようなので、機会があればぜひ聴いてみてほしい!きっとその音色に心を奪われるだろう。
アルパ。身長の高さほどあるハープです。日本でも年に何度か演奏会があります。
パラグアイ国民の人種の97%はメスティーソと呼ばれ、これはグアラニー族を中心とした先住民(黄色人種)とスペイン人を中心とした移民の混血である。パラグアイでここまでメスティーソが多いのは、18世紀に民族間の衝突を避けるために国策として異人種間の通婚を推奨・強要したことが大きな要因である。元々住んでいた純粋なグアラニー族は混血化により殆ど全滅したが、グアラニー語はパラグアイの公用語として国内で広く話されている。(参考文献:田島久歳、武田和久『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年)
その中で私たちはインディアンのアチェ族が住む村を訪問した。アチェ族の村は非常に奥地にある。インディアンと聞くと未開の地で槍や弓を持った狩猟民族を思い浮かべる人も多いだろう。かつてはアチェ族も植物の採集と木製の弓を使って様々な動物を狩猟する生活を送っていた。しかし、現在のアチェ族は自らの伝統的な文化や言語を守り、農業や狩り(ウサギやワニなど)の自給自足の生活を送る一方、服装は洋服で、交通手段としてバイクを持っている人も見られた。
お話の中で、
など、パラグアイの他の農村にも共通して見られる問題があった。
子どもたちは非常に人懐っこく、私たちが村を訪れると子供たちがハグをして出迎えてくれ、一緒に遊んでいるときも常にハグを求められた。子どもたちが話すのはアチェ語とグアラニー語が混ざった言語であり、S村とかM地区の子供たちよりも話をするのが困難であったが、子供たちの人懐っこささもあり言葉が伝わらなくても楽しい時間を過ごすことができた。
アスンシオン博物館は銀行や外国からの協力を得て、たくさんの芸術品を貯蔵するパラグアイで一番大きな博物館である。しかしもともとは個人で収集していたという。パラグアイ・イタグア市の伝統民芸品であるニャンドゥティはもちろんのこと、先住民族の作品から、キリスト教関連の作品、現代アートまで、そしてパラグアイだけでなく、ラテンアメリカやスペインから集められた幅広い種類の作品が展示されていた。初めて見るものばかりで、私にとっては少し面白い展示品もたくさんあり、パラグアイの歴史を垣間見た気がした。
アスンシオンの中心部から近いので、パラグアイに行った時訪れてみることをお勧めしたい。(アスンシオン博物館パンフレットを参照 アスンシオン博物館ホームページ<www.museodelbarro.org>(2014年9月30日アクセス))
アスンシオン博物館の入口です。こちらには泥の博物館と書かれていて、
土でできた置物のようなものが中にたくさん展示されていました。
私は2014年度パラグアイ渡航で大きく分けて2つのことを行った。パラグアイの民芸品・ニャンドゥティの調査活動とS村での料理教室の開催である。現地では英語が全くと言っていいほど通じなかった。言葉を介したコミュニケーションが満足にできない状況において、表情はとても重要なコミュニケーションのツールであった。もちろん言語習得への努力を惜しんではいけない。しかし「笑顔」が持つ力は大きいのだということを肌で感じた。
農村での料理教室であるが、始めのうちはその企画や準備を一身に担っていたが、実は精神的にとても辛かった。普段私は何か悩みを抱え込んでいるのに平然とした態度を取ってしまう。しかしこの渡航をきっかけにして、そんな性格をちょっとでも変えたいと思っていた。分からないことや行き詰っていることを恥だと思わずに、仲間やその道の先輩を頼ってアドバイスを請うた。人と接することは、大変良い刺激になる。時にはつらい意味でも刺激となる。自分の胸のうちを明かすことで、それに応えてくれる仲間がいた。渡航準備期間から渡航後のメンバーを見て、私は大変良い友人を得たな、と思った。
私はパラグアイ渡航のすぐ後に、大学連携案件として青年海外協力隊員短期派遣(家政・生活改善隊員)として大洋州のトンガ王国において活動することが決まっていたため、そこでの活動もイメージしながらの渡航となった。地域や国が異なれば、文化や習慣も当然違ってくる。どの地においても自分がそこで活動させていただいている立場であることを忘れずに、内省しつつ挑みたいと考えている。