僕は今回のフィリピンSVの間に、さまざまな子供たちと出会った。DAWNで関わった、日本人とフィリピン人の間に生まれ母親の手で育てられてきた子どもたち、ホームステイした際に出会ったマリキナの子供たち、ルパンパンガコ小学校の子供たち、レイテ島でシェルター(仮設住宅)に住む子供たち、パヤタス地区を散策しているときに出会った子供たち。
DAWNでは、日本とフィリピンの有名な歌をお互いに教えあった。僕たちは、日本の子どもたちに人気の“ようかい体操第一”をダンスとともに教え、フィリピン側からは、フィリピンの童謡“Ako ay may lobo”をフリと一緒に教えてもらった。(ちなみにこの童謡は、持っていた風船が飛んで行って割れてしまい、風船を買ったお金で食べ物を買っていたらおなか一杯になっていたのになあという、お金や食べ物の大事さを子供に諭す一種の教訓歌のようである。)一緒に歌って踊ることで、自然と心打ちとけ合うことができたし、なじみない言語も歌を通して学べてとても楽しかった。
ホームステイ先のマリキナでは、たくさんの子供たちと一緒に様々なゲームをして遊んだ。おんぶや肩車をねだられたり、一緒にバスケットボールをしたり、子供たちはとても元気でそのエネルギーに圧倒された。日本のキャラクターがプリントされたシャツを着ている子もおり、日本製品がこんなところまで流通しているのかと驚いた。マリキナ地区は、フィリピンにおける中流階級者層が暮らす地区であるそうだが、シャワーのない家もあり、日本の一般家庭と比べるとその差は明らかであった。
Lupang Pangako小学校では、子供たちと一緒に折り紙をした。折り紙をやったことがある子も数人おり、ツルや恐竜などを折ってくれた。何か折った後も遊べる作品をと思って、“カメラ”を子供たちに教えながら折ったところ、とても好評で、子供たちはパパラッチになりきって喜んで写真を撮っていて嬉しかった。
レイテ島は、約1年半前の台風ヨランダの被害跡が残り、多くの家庭が仮設住宅での生活を強いられていた。下の写真の集合仮設住宅は、日本からの募金で開設されたものらしく、日本国旗が建物に描かれていた。台風被害のために住む場所も奪われ、最低限の設備しかない仮設住宅で暮らす子供たち。集合住宅であるということで、近所の子供たちと一緒に、屋外でカードゲームをしたり、絵を描いたりして楽しそうに遊んでいる子供たちもいた。しかし、もしかするとこの子達の中に台風で親や兄弟を失った子供もいたのかもしれない、とふと思った。
最終日にパヤタス地区散策を行ったときは、道中いたるところで、子供たちがバスケットボールやメンコやビリヤードをしたりして遊んでいた。僕たちのところにどんどん近づいてきて、あいさつやハイタッチをしてくれた。 また家庭訪問もさせてもらい、そこで暮らす少女の話を聞いた。少女の母はヘルパーとして昼間は出稼ぎに出ており、家には少女とその妹弟、そして飼い犬がいた。5畳ほどの狭い空間に、生活道具が揃えられていた。少女の話を聞くと、毎日学校に行って勉強することが楽しい、将来は起業して働きたいと話してくれた。家ではまともに勉強するスペースもないため、近くの図書館で勉強をするらしい。今でこそ勉強に専念することができるが、何年か前は、昼間は学校に行き、夜は働いて家庭を支える生活を送っていた時期もあったようだ。自分より若い十数歳なのに、自分よりもずっと将来を見据えて一日一日を生きているのだと感心した。
ツアーに参加する以前、フィリピンといえば格差が大きく、貧しい人は毎日つらい生活を送っているという、イメージがあった。実際にフィリピンに行ってみると、確かに格差や厳しい現実はそこにあったが、そこで過ごす人たちの雰囲気は僕のイメージと異なることが多かった。限られた生活環境の中でも楽しみや希望をもって生きている人が多くいたということ。特に、子どもたちの明るい笑顔が印象的だった。思ったことは、僕たちと何ら変わらないということ。僕は日本で、特に何事もなく日々の生活を送っているが、何らかの原因で日々の生活が大きく変わってしまうことだって十分ありうる。しかし状況が変わっても、その後の生活をどう送るかは自分たち次第である。どんな状況下でも、楽しみや希望をもって一日一日を生きていくということの大切さに、日本での生活を離れ、フィリピンの子供たちを見て、改めて気付かされた。