オーストリアSV

ウィーンの現代建築と「文化力」

臼杵 諒
都市科学部 都市社会共生学科2年

ウィーンにおいてよく特集などで取り上げられるのは、王族たちが築き上げたいわゆる宮廷建築であることが多い。例えば、ウィーン中心街にあるハプスブルク王朝の政治の中心となっていた旧王宮や新王宮、そして世界で一番美しい図書館ともいわれるオーストリア国立図書館や、中心街から少し離れたところにある“夏の離宮”といわれたシェーンブルン宮殿などはあまりにも有名であろう。

その一方でウィーンの中心街で異質の光を放つ建築がある。それがタイトルにもある現代建築と呼ばれるものだ。現代建築とは19世紀末から20世紀にかけて王族の建築とは対照的に装飾も少なく機能性を重視して建てられたものである。それに魅せられた私は、「現代建築にはウィーンにおいてどのような文化的意味を持つのか」という問いを皮切りにフィールドワークを行った。

ウィーンの宮廷建築

とはいってもまずは比較対象となる宮廷建築を見てから現代建築を紹介していきたい。

① 王宮

写真1は、先ほどハプスブルク家の政治の中心になっていたという紹介をした、13世紀以降に建てられた旧王宮である。この王宮はウィーンの中心地にあり、よく見ると上の方には彫刻がたくさん施されており、この細部意匠にも王族の権力を見ることができる。またこの中には皇女エリザベートの博物館や銀食器の博物館もある。

オーストリアSV2018:写真1 ハプスブルク家の王宮

写真1 ハプスブルク家の王宮

② オーストリア国立図書館

次は先ほど紹介した世界で一番美しいとされるオーストリア国立図書館である。バロック建築を基調とし、柱にまで金の装飾がなされ、王族の権力の強大さを象徴しているといえるのではないだろうか。また天井には豪華な天井画が描かれており、また優雅さも加わっている。展示品の中にはモーツアルトのレクイエムの直筆譜もあり、世界的にも貴重な資料が展示されている。

オーストリアSV2018:写真2 オーストリア国立図書館

写真2 オーストリア国立図書館

ウィーンの現代建築

いよいよ本題であるウィーンの近代建築の紹介に入っていきたい。ここで主に紹介するのは2つの建築である。1つはアドルフ・ロース(1870〜1933)という建築家によって建てられたロースハウスというものである。2つ目はオットー・ワーグナー(1841〜1918)という建築家によって建築されたオーストリア郵便貯金局である。オットー・ワーグナーはアドルフ・ロースの師ともいえる人物である。それでは詳しく紹介していこう。

① ロースハウス

オーストリアSV2018:写真3 ロースハウス

写真3 ロースハウス

この写真がロースハウスである。
先ほどの王宮に比べて柱に装飾はなく、非常にシンプルな造りになっていることが見て取れる。それもそのはずで、この建築をつくったアドルフ・ロースという建築家は『装飾と罪悪』という著書の中で、「装飾は罪だ」という発言をしている人である。彼は華美な装飾を嫌い、当時の王族建築の潮流に逆らい王族関係者との対立もあった。

興味深い点は、このロースハウスが先ほど紹介した旧王宮の目の前に立っていることである。彼や、後ほど記述するオットー・ワーグナーという建築家もそうだが、彼らは分離派という集団に所属していた。その理念は「時代にはその時代に必要な芸術を、芸術にはそれにあった自由を」というものであった。彼らはすでに王族の時代が傾きつつあるということを肌で感じ取り、このような現代的な、建築的に実用性のある建築物を建てたのだと考えられる。

② オーストリア郵便貯金局

次の写真はオーストリア郵便局である。

オーストリアSV2018:写真4 オーストリア郵便貯金局

写真4 オーストリア郵便貯金局

約100年前にオットー・ワーグナーによって建築されたものである。ウィーンの建築様式は建物の役割に基づくという暗黙のルールの様なものがある。例えば国家議事堂の建物の建築様式には、民主制が始まったギリシア建築の様式が採用されている。この郵便貯金局も、郵便貯金という近代的なシステムを採用している建物としてはこの暗黙のルールに合致しているといえる。

またオットー・ワーグナーも、建築において必要最低限の装飾しか用いないという考え方の持ち主である。その証拠にこの建物の中にあるギャラリーには、「実用的でないものは美しいといえない」という彼の言葉が残されている。

装飾と文化力

では、そもそも王族たちは何のために装飾を用いていたのだろうか。そのヒントは、ロースやワーグナーが現代建築に目を向けていった原因でもあるハプスブルク王朝の衰退にある。

ハプスブルク王朝は全盛期、ヨーロッパの広い地域を制圧していたが、カトリックの権威低下とともに、権威も低下していった。そこで隣国から攻め込まれないように、自らの権力を大きく見せる必要があった。その時にひらめいたのが、文化力という概念である。巨大な物や豪華な装飾を施すことで、自らの国力を大きく見せようとしたのである。また文化力の一つの例として音楽が挙げられる。音楽は文学とは違い、言葉を必要としない芸術であるため重宝されたという背景がある。そのため、ウィーンは音楽の都として発展したという考え方も可能である。

このような時代背景に気づいていたロースやワーグナーだったからこそ、実用性という点にこだわり建築を建てていたと考えられる。その上彼らのような運動がなければ、ウィーンの街は豪華絢爛過ぎて逆に気疲れしてしまうような街になっていてもおかしくはなかったのである。

このように建築一つとっても、様々な時代背景や思惑が隠されていることが見えてくる。今後は日本の建築にも隠された時代背景なども研究して、「歴史の中の建築」という建築という静的なものを動的に再構築してゆけたらよいと考えている。