オーストリアSV

オーストリアの原語、国民意識

田浦茉菜
都市科学部都市社会共生学科 2年

研究テーマ

なぜドイツのドイツ語とオーストリアのドイツ語は違うのか。これは私が2年生になってから考えてきた疑問だ。

確かに方言の違いなどで説明はつくのかもしれない。しかし、挨拶や発音の仕方に見られる違いなど、方言だけで説明されるより大きな要因があるのではないかと私は考えた。SVへ行く前は、ハプスブルク家や宗教改革の影響があって同じドイツ語に違いが生まれたのだと考えていた。また、なぜ違いが生まれたのかという疑問に加えて、なぜオーストリア語が生まれなかったのかという疑問も持って実際にオーストリアに向かった。

ウィーンにおいて直接的に言語のことを知れる博物館は少なかった。そこで、エスペラント博物館という、エスペラント語に関する博物館以外はオーストリアの普遍的な歴史を知れるような博物館や建物、教会をメインにまわった。私はウィーン滞在中に様々な場所を見て、学んだことを3つにわけてまとめたい。

エスペラント語

まず、1つ目にエスペラント博物館で学んだことについてまとめたい。

エスペラント語とは、ルドヴィコ・ザメンホフとその弟子たちが考案した人工言語である。国際補助語として、母語の異なる人々のコミュニケーションの手助けをするものとして世界的に認知されている。エスペラント語は世界的なコミュニケーションの問題を高いレベルで解決するために1887年にはじまり、広まっていった。

エスペラント語話者のシンボルとしては緑の星が採用され、緑は希望を、星は5つの大陸を表している。”Never again war!”というスローガンのもと、平和の象徴として平和活動において積極的に利用されていた。

しかしヒトラーが統治した時代には、エスペラント語はユダヤ人の言語として禁止された。スターリンもエスペラント語話者を計画的に逮捕するなど統制した。エスペラント語はあまり知られていないかもしれないが、外国語として英語を勉強する際、エスペラント語を勉強したうえで英語を勉強した方が早く習得できるようだ。このエスペラント語以外にも、博物館には多くの言語が紹介されており、ドレミの音に意味をもたせ、言語として機能させているものなどもありとても興味深かった。

この博物館を見学して分かったのは、オーストリアでは独自のオーストリア語を作らなかっただけであり、言語に関する興味がなかったわけではないのだということ。言語の違いによるトラブルを解決するためにエスペラント語ができたように、言語の違いは戦争の原因となっていたわけであり、実際にハプスブルク帝国でもチェコの民族紛争に見られるように争いの原因の多くは言語であった。

その点において、やはり言語というものは民族意識を構成する重要な要因であることが分かった。また、アルファベットや独自の文字がなくても音だけでコミュニケーションをとることができるなどとは考えたこともなく、私にとって「言語」の概念が大きく広がった。

オーストリアSV2018:写真1 これはドレミの音を使った言語です

写真1 これはドレミの音を使った言語です

オーストリア博物館

2つ目に、オーストリアにはオーストリアの歴史を知ることのできる博物館があるということだ。つまり、専門的な博物館だけではなく、歴史を大づかみに知ることができる博物館もあるということだ。

日本では科学博物館や鉄道博物館、歴史資料館など専門的な博物館が多く、また都道府県だけの歴史を知ることができる博物館はある。対照的に、日本の歴史を知れる博物館は、オーストリアに比較すると少ないのではないのだろうか?

たしかにオーストリアにも、自然史博物館、美術史博物館など専門的な博物館もある。しかし、建国以来の歴史を知ることができる博物館が新王宮にあった。“Haus der Geschichte Österreich”という名前で昨年11月にできた比較的新しい現代史博物館である。そこではドイツに統治されていた暗黒の時代や建国に伴う負の歴史など、オーストリアの悲しい歴史と共に、比較的異最近のスポーツや芸術などを紹介する展示があった。

私はこの博物館に行って、日本にはないタイプの博物館できわめて面白いと感じた。博物館は比較的歴史のある昔のモノを取り扱っていることが多く、現状を知ることのできるものはあまり展示されない。しかしそこでは、年代に分けて様々な分野の展示がなされていた。私はそのような展示の仕方から、オーストリアは自国の歴史を大切にしている、またオーストリアの人は自国の歴史に興味を持っているのだと考えた。

オーストリア共和国は、巨大なハプスブルク帝国に比べると随分縮小してしまったが、それでもオーストリアの歴史を重んじ大切にする文化があるのだろう。宗教やライフスタイル、常識などが違うとはいえ、日本人で休日に博物館に行って日本の歴史や美術を学ぼうとする人は比較的少ない。また、日本にも国立歴史民俗博物館などの歴史博物館はあるが、オーストリアに比べ研究を目的としている場合が多く、一般市民に向けられたものというイメージはあまりない。

オーストリアのように地元の人も観光客も訪れるような、広く大衆に開かれた歴史博物館が今後日本にもできればよいと感じた。

オーストリアSV2018:写真2 この建物に“Haus der Geschichte Österreich”は入っていました

写真2 この建物に“Haus der Geschichte Österreich”は入っていました

研究テーマに関する結論

最後に、私の研究テーマについて考えたことをまとめたい。ウィーンでの滞在で分かったことは、オーストリアのドイツ語はドイツのドイツ語と全く違う、またオーストリア語を作らなくてもよかった理由はオーストリアの文化力に起因する、ということだ。

まず、オーストリアのドイツ語はドイツのドイツ語と全く違うということは、街で聞こえてくる言葉からも聞き取れ、昨年3月にドイツに行ったときに聞こえてきたドイツ語とは違う言語のように感じられた。また、ウィーン大学の生徒との交流の場で大学生に話を聞いてみると、オーストリアのドイツ語は発音や話し方においてオリジナリティがあり全く同じ言語とは思っていないと言っていた。基本は同じであっても長い歴史のなかでオリジナリティが生まれ、同じドイツ語でも異なる言語のようになってしまった。

ではなぜ、もう少し形を変えてオーストリア語を作らなかったのか。その理由は前に述べたようにオーストリアの文化にあると考えられる。私はウィーンSVでウィーンに行くまで、国民意識を決める最も大きな要因として言語が存在すると考えていた。日本でも、日本語を話すことが日本人としての意識の中で大きな位置を占め、オーストリアでも同様にそうなっていると考えていた。しかし、ウィーンで様々な博物館を回り、ウィーン楽友協会に行って話や演奏を聴く体験をして、言語だけが国民意識を決める要因ではないと感じた。

オーストリアでは、言語ではなく豊かな文化が国民意識につながっているのではないか。これが今回ウィーンSVを通して出した、研究の答えである。ハプスブルク帝国の時代から、オーストリアは自国の国力をアピールする際に文化力を誇示し、どれほど素晴らしい文化を持っているかということで勝負してきた。そのように文化力はオーストリア人の誇りであり、文化大国に生まれ豊かな文化に囲まれて生きることがオーストリア人としての意識を生んでいるのではないか。

今回のウィーンSVを通して、どれだけ私が固定概念に執着し、柔軟に考えることができていないかを痛感することもできた。日本の当たり前とオーストリアの当たり前は全く違い、様々なフィールドワークにおいて新鮮な体験をすることができた。今後の研究の課題として、オーストリアや日本に限らず国民意識は何によって決まっているのか、国民意識における言語の占める割合はどれくらいあるのかについて考えていきたい。また、オーストリアとドイツの言語の違いと同じようなことが、日本の方言に見られるため、なぜ方言が生まれたのか、なぜ標準語が生まれたのかについても考えたい。