私は2018年9月3日〜11日の9日間、韓国SVに参加した。行程としては、3日〜7日の間、ソウル市立大学の学生寮に宿泊し、同大学の教員や研究者の案内を受けながらソウル市内の博物館や歴史的建造物、教会や市場などを中心にフィールドワークを行った。8日には高速バスで安東市に移動し、河回村の調査をした。9日は安東市内の調査を行い、10日にソウル市でスタジオの教員、学生と解散した。また、今回のSVでは、スタジオの学生各自で研究テーマを事前に決め、各学生のテーマに沿った調査地の希望を出しあい、それぞれの調査地にスタジオ全員で訪れる形でフィールドワークに取り組んだ。私は「韓国における近代宗教の聖地について」をテーマとし、キリスト教の教会や聖地や仏教の寺院を調査した。この報告書では、韓国におけるキリスト教、特にカトリックの歴史について、現地の教会や聖地を訪れ感じたことを交えて考察する。
2016年の統計では、韓国の宗教人口の内、仏教の信者が42.9%、プロテスタントは34.5%、カトリックは20.6%となっており1、キリスト教信者全体の数は仏教信者よりも多い。韓国の人口全体からするとキリスト教信者はおよそ3割を占めるため、現在の韓国の社会ではキリスト教が大きな力を持っていると言える。また、現在韓国語ではプロテスタントを「基督教」、カトリックを「天主教」と漢字表記する。(以下、朝鮮半島のプロテスタントとカトリックの表記は、この表記を用いる。)両派の信者数を比較すると基督教の方が多いため、現在の韓国では基督教の方がメジャーと言えるだろう。しかし両派の朝鮮半島での布教の足取りを見ていくと、歴史的には天主教も重視されてきたことがわかる。
まず、基督教の布教について確認する。基督教の内、最も信者が多い教派は長老派であり、「この近代朝鮮・韓国の歴史における長老派の突出した需要を説明する際の通説となっているのが、[ネビウス方式](Nevius Method)という宣教政策の成功である」2。また、「1885年から朝鮮で伝道を開始していた北長老派のアンダーウッドやモフェットもネビウスの宣教方法に関心を寄せ、(中略)彼らはすぐに朝鮮においても[ネビウス方式]を実践することを決めた」ようだ3。ここではネビウス方式という宣教方法の内容について議論することはしないが、まとめると朝鮮のプロテスタントの布教は17世紀末から外国人宣教師の手によって開始されたものだ。
これに対して、国交制限政策によって宣教師を受け入れなかった1600年代の朝鮮に、カトリックの知識が「(前略)1603年、北京から『天主実義』という宗教書がもたらされる。冷遇されていた南人の学者たちはこれを学問的に研究するようになり、彼らの中にはこれを信奉する学者も出てきた。」4という、外国人宣教師を介さないルートで韓国に入ってきた。そして、この天主教を研究する活動が人々の間に広まり、ついに次のような行動を起こすものも現れる。
1783年(正祖7)には彼らの同志である李承薫を冬至使便(冬至の頃に北京に行く国家使節)として北京に向かわせる。翌年春(中略)、洗礼を受けて帰国する。(中略)そしてただちに同志に洗礼を与え、翌年(1785)春には(中略)李徳ス、権日身らを神父に選び、宣教活動を始めた5。
つまり、朝鮮の天主教の布教は、基督教より2世紀ほど早い時代から始まり、外国人宣教師の手を借りることなく、朝鮮人自ら書物から得た宗教的知識をもとに宣教するという形で行われたのだ。
また、プロテスタントの外国人宣教師の宣教が実際には「朝鮮王朝の圧迫に苦しむ人々を自らの下に保護したり、(中略)自らの政治・経済的力を現地の人々に誇示する形で宣教活動を展開していた」6ことからも、教義とは別の要素を利用して信者を増やした基督教と、知識人階級がその教義に惹かれて宣教を始めた天主教とでは、当時の朝鮮人に与えた精神的な影響は大きく違ったはずだ。以下では、実際にソウルで訪れた天主教の教会や聖地を振り返るとともに、天主教が韓国人信徒の精神とどう関わってきたかを考察する。
写真1 明洞聖堂
明洞はソウルの中でも特に日本人に人気の観光スポットとして有名だ。ソウル地下鉄の4番線明洞駅の六番出口から出ると、大きなショッピングストリートが目の前に広がり、並び立つビルや屋台での買い物を楽しむ観光客でごった返している。雑踏を避けるように中心街から外れ、東に進むと小高い丘が見える。丘のふもとにはカフェやキリスト教のモチーフが使用されたアクセサリーショップなど小さな店が道に沿って並んでおり、人の数もそれほど多くなく居心地がいい。明洞聖堂(ミョンドンソンダン)はそんな丘の頂上に立っている。この丘は1784年に「明礼坊」という韓国で最初の天主教の宗教集会ができた場所であり、1894年にコステ神父の指揮により明洞聖堂の建設が開始され、1898年に完成した7。以来この聖堂は天主教のシンボル的な存在であり、信者の心の拠り所となっている。
明洞聖堂の中はカトリックの建築らしく天井が高いアーチ構造になっている。奥には十字架にかけられたキリストの像や「キリストと12使徒」のステンドグラスなどがあしらわれており、ヨーロッパにもよく見られる形態の教会であると思う。
写真2 教会の絵画
一方で、この教会ならではの装飾として私が注目したのは、韓国の民族衣装であるチマ・チョゴリとパジ・チョゴリを着た人々が集まっている様子を描いた絵画である。(写真2)絵画の近くにはキャプションがついており、韓国語、英語、中国語の題名と、日本語で「信者の集会」と題名が書かれていた。中央には恐らく外国から来たであろう神父が描かれており、その周りを民族衣装の人々が取り囲んでいる。つまりは布教の一場面を表した絵画であるのだが、海外の聖堂や教会の壁画が聖書の一場面を描いたものがほとんどであることを考えると、このような種類の絵画が大きく飾られているのは違和感を覚える。私は初めこの絵画を、観光客向けに歴史を解説するための工夫と考えたが、それにしては周囲に絵画の内容の背景を説明する文章が無かった。つまり、この絵画は純粋に聖堂の装飾としてあり、観光客に向けてというより現地の信者にとって重要なのではないか。そして、このような絵画の存在は、韓国の天主教信者にとって、本来キリスト教の教義の中心となる聖書の物語と同等かそれ以上に布教の歴史が重要であることを表していると私は考える。
もう一つ、私は韓国天主教の聖地とされる切頭山(ジョルドゥサン)殉教聖地(以下、殉教聖地)を訪れた。殉教聖地は漢江の北岸沿いにあり、ソウル地下鉄2号線の合井(ハプチョン)駅から歩いて10分だ。因みに合井駅は地下鉄でありながら地上に出ており、さらに線路は切頭山のふもとと、漢江を横断する堂山鉄橋上を通るため、合井駅からは線路沿いに歩けば殉教聖地に着く。殉教聖地は小高い山の中にある公園のような場所で、聖母マリアやキリストのオブジェが多数あり、キリスト教をモチーフにしたアート作品が多数配置されている。中でも特に目を引くのは十字架型にきれいに刈り込まれた芝生に設置されている3メートルほどの立像である。これは、朝鮮人として初めて天主教の神父となった金大建(1822〜46)の像である。
金大建は1836年に瑪港(現在のマカオ)にわたり、現地の神学校で勉強したのち、1845年に上海で神父となり帰国した。しかし帰国してすぐ、1846年に丙午教難と呼ばれる迫害に見舞われる。「当時権勢を握っていた趙万永一派が、留学から帰ってきた金大建を殺すために起こすために起こした迫害」8 の結果として金大建は処刑され、24年という若さでこの世を去った。またこの像からは、神父であるはずの金大建が、祭服(カトリックの神父の正装)ではなく、民族服に笠をかぶった出で立ちであることがわかる。これは前述した民族服の信者の集会にも通じる点ではあるが、この服装は、当時天主教が迫害されていたため、信者たちはカモフラージュのために、キリスト教に関連する服装ができなかったことを表している。
写真3 処刑台を模した慰霊碑
金大建の像に象徴されるように、この殉教聖地は、天主教の迫害によって処刑された信者を追悼し、迫害の歴史を語り継ぐ場所である。そもそも「殉教」とは、「一般には、宗教上の信仰ゆえに迫害を受けて死ぬこと」9とされ、カトリックの教えでは、カトリックの布教、貢献に大きく貢献し殉教した信者はローマ・カトリック教会の審査を経て「聖人」という称号を与えられ、信仰の対象となることもある。金大建も聖人の一人に数えられる。
また、この場所が「切頭山」と呼ばれているのは、1866年に起こった「(前略)9名のフランス人聖職者と8千人以上の朝鮮人が殉教した」10とされる丙寅教難で、大勢の信者がこの地で処刑されたことに由来している。そして、金大建の像と並ぶ象徴的な像として、殉教聖地のはずれに処刑台を模したと思われる慰霊碑がある(写真3)。駐車場がすぐ横にあることに違和感を覚えるが、まさにこの場所で処刑されたということなのだろうか。慰霊碑には殉教者たちの立ち姿のレリーフが彫られており、どの殉教者もどこか懐かしいような、親しみやすい微笑みを浮かべている。前述したように、カトリックにも殉教した信者を尊ぶ教えはあるが、切頭山殉教聖地のように、大勢の信者が迫害によって処刑されたまさにその場所を聖地とするのは、韓国天主教の大きな特徴といえる。
最後に、韓国天主教の迫害に対する姿勢について、明洞聖堂と殉教聖地の体験を合わせて考察し、本論のまとめとしたい。
韓国には、切頭山殉教聖地以外にも、海美邑城(忠清南道端山市)や沙南基聖地(ソウル特別市)など、各地に殉教者を祀る聖地が存在する。これは、「(前略)1801(辛酉年)とお1839年(己亥年)の二大教難があった。さらに、同じような大教難はその後1846年(丙午年)と1866年(丙寅年)、そして1901年(辛丑年)にも起きた」11ように、韓国において教難、つまり迫害とそれによる大処刑が何度も起きてきたからである。明洞聖堂の節で韓国天主教にとって布教の歴史こそが重要ではないかという考察を述べたが、韓国天主教の布教の歴史とは、迫害の歴史に外ならないのである。
ではなぜ、韓国天主教は、教会の絵画や、殉教聖地という形をとってまで迫害という辛い歴史を後世に語り継ぎ、重要視するのか。それは、信者にとって、あるいは天主教という共同体そのものにとって、迫害に耐えて自分たちの信仰を守ってきたという事実そのものが、自分たちのアイデンティティを形成する大きな糧となっているからではないかと筆者は考える。
写真はすべて筆者撮影