私は2018年9月3日から10日の8日間、韓国でショートビジットを行った。3日から7日はソウル市内の博物館や教会、市場などに赴き調査を行った。8日、9日の2日間は慶尚北道安東市内で調査を行った。今回の韓国ショートビジットでは、一人一人がテーマを定め、事前の文献調査も踏まえた上で現地でのフィールドワークに取り組んだ。私のテーマは「韓国の仮面劇」である。仮面劇が行われている安東河回村や、仮面劇に関する資料が展示されている国立民俗博物館(ソウル市内)で得た情報をもとに、この報告書で仮面劇について考察していく。また、自分の考える仮面劇との比較も行う。
朝鮮王朝の古民家が保存され、また、現在も人々が生活している安東河回村の広場(マダン)という半円状の舞台で行われる。マダンは「場」という意味でもあり、現在見ることができる場は10のマダン(老婆、破戒僧、両班と学者、舞童、チュジ、白丁など)である。河回村で行われる仮面劇を「河回別神グッ仮面劇(河回別神グッタルノリ)」という。「別神グッは村の平安を祈願するために特別大祭として執り行われたり、村が災いにみまわれたり憂患が重なったりした際には不定期で執り行われた。」1 また、「タル」は〈仮面〉を意味し、仮面劇は遊びを表す「ノリ」または「ノルム」をつけて「タルノリ」「タルノルム」と呼ばれる。また、「ノリ」は神遊びという意味も持つ。「チュム」は〈踊り〉を意味し、河回別神グッタルノリは、別神グッを行う際に村人たちが仮面をかぶりタルチュムを踊る。劇の内容としては、主に庶民が支配階級の者たちを風刺したものだ。
現在、河回別神グッ仮面劇(河回別神グッタルノリ)は韓国重要無形文化財第69号に登録されている。
河回仮面劇の一番の特徴は演者が仮面をつけるということだ。仮面をつける意義として、仮面と神の関係性、役の識別、身分の区別の三つが挙げられる。まず、一つ目の仮面と神の関係性である。現地で見た劇では、楽隊の人以外は、仮面をつけているか、被り物で牛の姿をしていた。役によって決められた仮面をつけていた。韓国の仮面劇を研究している村上祥子によると、「仮面を表すことばである「タル」は、災いや病気を表すことばでもある。仮面は神の姿を表現しているが、その神は時として祟るかもしれないという恐怖を与える存在でもあると考えられていた2 」、という。仮面をつけることで何か他の者になるということの中に、神という存在との関係も現れてくる。村の平安などを神に祈願する祭で使用された仮面は神への接近の一つの手段であったと言える。古代ギリシアの演劇においても仮面は礼拝の重要な要素であり、儀礼や祝典で使用されていた3 ということから、河回仮面劇に限ることなく、仮面と神という存在の関係性は他の仮面劇からも見ることができる。また、二つ目の意義として、他の仮面劇との共通点は仮面が顔の特徴を誇張し観衆が役を識別しやすいという点である。この点は特に、野外の舞台で聴衆にとって見やすいという効果がある。三つ目の意義として、河回仮面劇は社会的地位が明確に異なる役が登場し、社会的地位に焦点を当てた劇の内容であるため、仮面が身分を区別することに役立っている。河回村では職業としての俳優が存在しなかったため、庶民が違った階級の者に扮するため仮面をつけた。仮面に対して、神に関係するものと支配者を風刺する道具という、大きく差のある二つの認識を持っている。この差のある認識は、人々の中でどう共存できるのだろうか。4
写真1 イメの仮面
(安東市河回マウル内、タルチュム劇場にて撮影。
2018年9月8日)
河回仮面劇で使われている仮面はあごが動くものと動かないものがある。仮面のあごが動くことで表情の変化や躍動感が生まれ、あごが動かない仮面に比べ、観衆の印象に残る存在になり得る。また、〈イメ〉という役の仮面はあごがない(写真1)。これは仮面の作成者である虚ドリュンが仮面を完成する前に倒れてしまったためである。〈イメ〉は酔っぱらって下品なことを言う陽気な役だ。現地で河回仮面劇を見た際、最後の場に登場したイメは、酒に酔いフラフラと観衆に接近する姿とあごがない仮面による口元の表情で見る者を惹きつける存在であった。河回仮面劇のパンフレットの表紙やホームページにもその写真が多く載っていることから、この劇の中で注目される役だということが伺える。ここで一つ一つの仮面は取り上げないが、他の仮面も歪んだ口元や深く掘られた目、皺の歪みなど、仮面によって多種多様な特徴が見られ、その背景には社会的地位や女性差別など庶民の生活が隠されている。また、仮面は重要無形文化財の登録の際に民俗の「古い形態」として注目された。
河回仮面劇の演技内容は主に、朝鮮王朝時代の支配階級の虚構性を暴露するもの、破戒僧をとおして仏教の堕落性、虚構性を批判するもの、民衆の暮らしの哀歓を風刺的に表現するもの、女性差別を批判するものなどが挙げられる。そしてどの場〈マダン〉もこれらの批判や不満を、踊りや歌、台詞で笑いという形に変えて表現している。
具体的なものとして、現地で見た6つの場の内、特に印象に残った破戒僧〈ジュン〉の場を取り上げる。妓生であるプネが尿意をもよおし小用をしている所に、僧が通りすがり欲情する。僧はプネを誘い二人で遊ぶ様子を両班〈ヤンバン〉の使用人に見られ、僧はプネをおぶって逃げる。そして両班の使用人は学者〈ソンビ〉の使用人であるイメを呼ぶ。「坊さんとプネが躍るご時世ならば、私たちも踊ろう。」ということで二人も踊り出す。
庶民は仮面劇において、仮面をつけることで日々の不平不満を代弁し皮肉な笑いにすることで、不満のはけ口とした。伝統的な行事で行われた仮面劇が、人々の鬱憤を晴らすという役割も担うという点では、日本で行われる祭と近い要素を持っていると考える。一種の神聖な場で、人々の欲望を解き放つということはどの社会においても必要なことなのかもしれない。演技内容に取り上げた破戒僧の場からも見られるように、厳格な階級社会で抑圧された生活で支配者を風刺し、笑いという形に変えて表現することはこの河回仮面劇の大きな特徴である。現在では、大衆化され多様な人が見て楽しむことのできる新たな民俗文化となっている。そこで、人々の中で仮面劇の役割も変わってくる。観光地化した河回村での仮面劇は、よりエンターテインメント性を重視したものになる。それは、対象とする相手が大きく変化したことが理由だろう。
「1995年に地方自治制度が確立されると、安東市は他の地方自治体と同様に、地域の経済収益を見込める多様な観光商品に関心を持つようになる5 」。現地では、河回仮面劇が商業化されている様子を様々な所から見て取れた。公演では外国人観光客向けに舞台のスクリーンに英語や日本語などの翻訳が載っており、また、公演前には河回仮面劇のPR音楽が流れていた。劇場内だけでなく、河回村やソウル市内に至るまで河回仮面のお土産が販売されていた。そして劇の形態からも現在の商業化された様子がうかがえた。多くの演劇は舞台と観客を別々に区別するものが多い、河回仮面劇の場合、舞台上で演者と観客がコミュニケーションを取り合うという形態だった。舞台上で演者が観客に河回仮面の商品をお礼として渡す場面があり、その形態から観光地化した現在の姿が強く印象に残った。
「世界遺産登録のため、ユネスコが要求する形式に合うよう、地域や民俗から文化要素を発掘し再構築する作業は、さまざまな背景と目的そして集団によって遂行されている6 」。文献などに見られる過去の河回仮面劇と、現地で見た河回仮面劇の印象には、大きな差があった。再構築する際に、どの部分が切り取られ、付け加えられ、または変容したのだろうか。現在の観光地化した河回仮面劇となったことには、世界遺産登録が主に関わっている。現在の姿に批判的な気持ちもあるが、そもそも無形の民俗文化は変容するものであるため時代やニーズに従った結果だと捉えるべきなのだろう。重要無形文化財の登録を目指すことは、本来の姿を変えてしまう部分もあるが、より多くの人々に知ってもらうという点では、河回仮面劇を残すという中の一つの方向性だと考えられる。
写真2 河回仮面劇の様子(安東市河回マウル内、タルチュム劇場にて撮影。2018年9月8日)
韓国ショートビジットにおいて仮面劇について調査を行い、報告書を書く中で、現地調査が不十分だった点がいくつか見つかった。その中の一つが河回仮面劇の役割についてだ。文献や自分自身が現地で見た印象をもとに議論を展開する上で、実際に仮面劇に従事している側の人々の声や観光地化する以前の仮面劇の姿を知っている人々の声も必要だと感じた。また、河回村が観光地化する前と後で、劇の内容に変化はあったのかということも更に調査したい点である。
河回仮面劇を知る以前は、仮面劇は神聖なものであり一種の儀式だと捉えていたが、文献や現地で実際に劇を目にし、決して神聖なものとは感じられない内容に驚愕した。そして、その差に面白さを感じ、自分の演劇に対する意識に少し変化が生まれた。今回の調査で初めて国外に出て新たな視点を持つことができたように感じる。
最後に、今回私が調査したものは韓国の仮面劇の一部であり、より広範囲の仮面劇について知識を深めていきたい。