孫文は中国の革命家、思想家、政治家。「民族主義、民権主義、民生主義」の三つから成り立っている三民主義を打ち出した民主主義者としてレーニンに評価された人物である。また、中華人民共和国では、孫文は偉大なる先行者として評価され、尊敬されている。
現在では、中国国内外の各地で、孫文を記念するために、孫中山記念堂や中山公園などが作られており、このようなところが80箇所以上あると言われている。今回の訪問の受け入れ大学である中山大学のキャンパス内にも、孫文を記念するために建てられた像が見られる。
中山大学南キャンパスにある孫文像
孫文の出身地は、広東省中山市の翠享村と言われているところで、広州市の南に位置する場所にある。広州市内には、黄埔軍官学校や大元帥府などといった孫文が軍事指揮や軍隊関連の活動をしていた所がいくつか残されている。香港には、医学を修めたときに通っていた香港西医書院(現香港大学)があり、革命をするための資金を援助してくれた梅屋庄吉との出会い場でもある。
中華民国時期(1912-1949)に、孫文の三民主義と孫文本人を宣伝する国民党の孫文崇拝運動の一環として、「中山公園建設運動」が行われた。民国初期、国民政府は資金が足りず、民間からの募金や、地方政府の税金などで、各地に中山公園を建てた。しかし、孫文の死後、国民政府は全国各地の孫文と関係のある(訪ねたことのある)公園を中山公園に改名する運動を行い、中国全土にある中山公園の数が一気に増えた。1949年には、中山公園は全国に267箇所あると言われていたが、半世紀ほど経過し、現存するのは87箇所と言われている。
今回のSVで訪ねたのは、香港の香港島西営盤にある中山記念公園である。この記念公園は、香港西区に海底隧道を建設する際、埋立地に建てられた公園が、長年使われず荒廃していたため、2002年に孫文を記念するものとして作り替えられと言われている。
公園の真ん中には、高さ4.5メートルの孫文の銅像が置かれており、銅像は孫文が訪ねたことのある地名と、その緯度や年月を刻んである石版に囲まれている。その中には、奈良や京都をはじめとする数多くの日本の地名がある。公園の入り口には、中国の古典「礼記」の一節である「天下為公」と書かれた石門がある。「天下為公」とは、天下は権力者のものでなく、公のためのものだという意味だ。
中山記念公園の夜景
石版
この中山記念公園を訪ねたのは夜だったが、公園の敷地内には、散歩やジョギングしている市民が多く見られた。孫文を記念するために作られた場所であり、整然として厳かな雰囲気が漂いながらも、芝生や植物が植えられており、海沿いの景色が綺麗である。スポーツの設備が整備されているため、市民も気楽に使えるようになっている。中国で最も忙しく、最も疲れる都市として有名な香港だが、その忙しげな都市生活の中、中山記念公園は、ストレスを解消できる、憩いの場として使われている。
中国国内で、ある時期「中山公園」が200箇所以上に作られたのは決して偶然ではない。
孫文は中国で三民主義を唱える人物として民衆に知られる。国民党が孫文を民族主義の宣伝をするための道具として、国民の中華民国への帰属意識を高める道具として使ったのがその始まりである。国民党は「公園」という西洋から入ってきた西洋的なものを使って、それを民主主義の象徴とする形で、中国各地に中山公園を建設する運動を行なった。中国各地の地方政府だけでなく、国民党の軍隊も建設運動に参加したと言われており、国民を労働力として徴用したため、民衆から反発を受けた時期もあった。その後、日中戦争が始まり、国民党は国民の抗戦意識を高めるため、孫文崇拝を国内で推し進め、より多くの中山公園を作った。戦時中に国民党は、中山公園を自由独立・反植民思想の宣伝拠点として使い、各地の中山公園で講演や抗日運動を頻繁に行なった。皇民化を進めようとした日本軍は、それを目にして、各占領地の中山公園を改名したり、建て直したりした。例としてあげられるのが、日本軍が北京を占領している時に、北京の中山公園を「中央公園」に強制的に改名し、中山堂を「新民堂」としたことがあった。このことからも、中山公園の政治的重要性を見ることができるのではないかと思われる。
新中国成立後の現在に至っても、中国各地で中山公園という名前の公園が多数見られる。孫文は「偉大なる先行者」として毛沢東に評価され、中華民族の象徴として尊重されている。
大元帥府正門前にある孫文像