陳氏書院は、清朝光緒20年(1894年)に広東省の陳姓の人たちの寄付によって建てられた合族宗祠である。祖先を祀る施設として、また子弟への教育をおこなう民間の施設として建造されたこの書院は、広大な敷地を有し、建物には中国の古代建築の伝統的風格と南方の建築特色を兼ね備えた装飾が施されている。その規模や保存状態の良さから、中国の重要文化財に指定され、現在では東民間工芸博物館として一般に公開されている。実際に訪れて、まずその大きさ、色鮮やかで精巧な装飾の数々に圧倒された。随所に施された美しい彫刻や像、生々しく再現された当時の優雅な暮らしの様子、書院の奥で存在感を放っている二つの位牌など、それら全てが当時の陳氏の繁栄を表しているように感じられた。同時に、そこからは、「陳」の姓を持つことに対する誇り、同姓を持つ一族に対する愛情、その結びつきの強さを見て取ることができたように思う。
当時、陳氏に限らず、広東の一族は次々とこのような施設を建設し、その数は広州市内において30あまりにのぼっていたという。清朝の時代の中国において、祖先を同じくする人々の繋がり、同じ姓を持つ人々の繋がりが、重要な価値を持っていたと考えることができるだろう。
陳氏書院の重厚で荘厳な造りや美しい装飾の中でも、一際印象に残っているものが、書院の奥の祭壇に置かれた二つの位牌であった。これは、当時の子孫たちが保護したことによって、文化大革命期の共産党による激しい排撃を免れ、今日まで受け継がれてきた位牌である。元々5000余りあった位牌であったが、文化大革命の際、この二つを残して全てが燃やされてしまい、現在は残っていない。美しい装飾物が全て剥がされ、ほとんどの位牌が燃やされる、自らの命すらも危険にさらされるという状況の中、当時の子孫たちは、どのような思いでこの二つの位牌を守り抜いたのだろう。ほとんど詳しい知識を持たずに訪れた私でも、際立って存在感を放つ二つの祖先の位牌を前に、それを大切に守り抜いてきた子孫たちの様子やその思いが、鮮明に思い描けるような気がした。そしてその思いとは、単に祖先を尊ぶ、というところに留まらないもののように感じた。何がそれほどまでに、祖先と子孫を結びつけていたのであろうか。
祭壇に置かれた二つの位牌
中国の「家」において最も恐れられたことが、子孫の断絶であった。しかしこれは、日本における家が断絶し、家名が断絶すること、つまりそこに含まれる一定の社会関係が破滅することが恐れられた事とは、異なる意味を持っている。子孫の断絶とは、受け継がれてきた血統、遺伝子、姓が断絶するということを意味しており、それは祖先に対しての最大の不孝、かつ自己にとっての最大の不幸だと考えられていたのである。祖先の生命は、子孫へと受け継がれ、子孫の中で生き続ける。つまり、中国の人々にとって、自らの生命は祖先の生命と共にあるものであったのだ。子孫たちはその生命を自らの体内に感じる事によって、自分自身の存在を意義づけていたのではないだろうか。そして、そうして受け継がれていく生命に対して与えられたものが“姓”であったと考えることができるのではないか。祖先とその子孫たちを固く結び付けていたものは、互いの存在そのもの、生命であったといえるだろう。
子孫の断絶、つまり祖先の生命が断絶することが恐れられたことに対して、祖先の生命を、つまりは子孫を拡大させることが望まれた。それによって、祖先の生命を継続させることを目指したのである。そのため、祖先を同じくする子孫たちは、皆等しく祖先の血を受け継ぐとされ、財産相続などにおいても均等分割が基本であった。祖先の財産は細分化され、一族は拡大することとなったのである。祖先を祀る祭祀なども、共通の祖先を持つ者たちで協力して執り行われた。そのことが、祖先を同じくし、姓を同じくする者たちの結びつき、“宗族”の中に含まれる“家庭”といった小さな単位でのつながりを強めることに繋がったのであろう。中国における同姓同族の繋がりの強さは、彼らの中に共通してある祖先の生命と、受け継がれてきた生命に対する誇り、そしてこれからも絶やすことなく受け継いでいこうとする意志によって支えられていたといえるのではないか。
壁に施された精巧な彫刻
伝説を象った彩豊かな彫刻
彼らの繋がりの強さや祖先への思いが作り出したものが、陳氏書院をはじめとする、祖先祭祀のための施設・子弟のための施設なのだ。現在では、役割を変えて人々を集める場所となっている陳氏書院であるが、受け継がれ、守り続けられてきた陳氏一族の魂は、今でも書院のいたるところから感じ取ることができる。そしてこの先も陳氏書院は、陳氏一族の生命の証として、訪れる人々に感動を与える場であり続けるだろう。