中国SV

自力村訪問 〜華僑たちの軌跡を巡る〜

大熊彩花
人間文化課程 3年

開平は、中国南部の広東省に位置する。開平に残る碉楼は現存するものが1800棟以上あり、そのうち自力村を含む4村(三門里、自力村、馬降龍、錦江里)の20棟が2007年に世界遺産として登録された。なかでも自力村は開平の中でも観光地として人気があり、かつては集落の形が桃の実に似ていることから「美桃」と呼ばれていたが、1960年代後半の文化大革命当時にスローガンとして用いられた「自力更正」という言葉から、現在は自力村と呼ばれている。

特徴的な建造物「碉楼」

中国SV2016:自力村訪問〜華僑たちの軌跡を巡る〜 写真1

碉楼は西洋建築を思わせる建造物で、独特の雰囲気を放っており、主に、同族で共有する建築物、住居、見張り台などとして使われた。世界各地に移り住んだ中国の人々が財を成し故郷に建てたものである。あらゆる様式・種類の建物が入り混じっていることから、開平の碉楼群を「万博建築博覧園」と呼ぶ人もいるそうだ。建造物のデザインは多岐にわたり、古代ローマ風のものからバロック風など様々である。建物様式は外国のものを取り入れているが、中国風の装飾がされており、建築物の持ち主の信念が込められているものもある。開平の建築物には、こういった西洋建築と自国の要素が含まれている碉楼が多い。その背景として、設計者がヨーロッパ人だけでなく、広州から招致された中国人設計者も多く存在したことがあげられる。

現在開平に残る碉楼は1800棟以上とされているが、1920年から1930年にかけての全盛期には、3000以上の碉楼があったとされ、現存する碉楼の約半数はこの全盛期に建てられたものである。自力村には現在15棟あり、のどかな田園風景と異質な建造物のコントラストが印象的だ。中でも上の写真中央に写る「銘石楼」という6階建ての碉楼は、自力村を代表する巨大建築である。高さ約20メートルの銘石楼は、1927年に2年間かけて建てられたそうだ。

華僑とは

祖国を離れて東南アジアを中心とする世界各地に移り住んだ中国系移民を華僑という。現在世界には約3000万人の華僑が居住しており、そのうちの約8割が東南アジアに移り住んでいる。開平のある江門市出身の華僑は、現在世界に居住する華僑の約1割を占めるとされている。19世紀の開平では移民として海外へ移住する者が多く、その数は開平に住む当時人口の半数以上に上った。

全ての華僑は永久的に母国を離れるわけではない。もちろん、横浜中華街の華僑のように独自のコミュニティを居住地で築き上げる者もいるが、出稼ぎ労働や母国の経済発展に伴い、帰国する者もいる。いずれにせよ華僑が居住国の影響を何らかの形で受けているということは共通の事実であり、自力村を訪問して、その影響の大きさを改めて実感した。

華僑が海外に移り住んだ背景

今回訪問した自力村にある碉楼は、アメリカやカナダを中心に海外に移り住んだ華僑によって建てられたものである。彼らが海外移住を始めた背景として、当時の社会情勢の悪化があげられる。開平が位置する中国南部の地域は19世紀におきたアヘン戦争の影響を受け、生活環境の悪化に伴って、一部の農民たちは故郷での生活を断念し、アメリカなどの北米へ移住した。

また、アヘン戦争のほかに、中国南部にもともと住んでいた「本地人」と呼ばれる漢人と、北方から南部に移住してきたとされている「客家」と呼ばれる人々の間の衝突も背景としてあげられる。明清王朝の交替期の1600年代に当時中国を統一していた清朝は、台湾を本拠地とする反清朝の鄭氏政権の勢力を抑えるために遷界令を発令した。広東省、福建省などを含む沿岸部に住んでいた住民に内陸へ約15キロ移住するよう命じ、沿岸部を無人化した。台湾征服後、清朝は遷界令を撤回し本地人の帰還がはじまったが、過疎地となっていた沿海部には、本地人だけではなく、客家の人々も居住するようになった。1850年代に起きた両者の大規模な衝突は12年にもわたり、敗北した客家人たちの中には海外へ逃亡する者もいた。

外国人労働者として

19世紀中ごろ、アメリカをはじめ世界各地がゴールドラッシュ時代であり、多くの人が移住してきた。当時開平出身者の主な移住先は、アメリカをはじめカナダやオーストラリアである。アメリカでは黒人奴隷が解放されたこともあり、中国人をはじめとする多くの移民が新たな労働力となった。外国人労働者としてアメリカに渡った中国人は、鉱山開発や鉄道建設などに従事した。もともとインド人をさすクーリーという言葉は、中国人に対しても使われるようになり、苦力(クーリー)と呼ばれるようになった。さらに契約労働者として雇い強制労働させることを苦力貿易とよんだ。だが19世紀後半になると、白人たちの間で、仕事を奪われたことに対する不満が爆発した。結果中国人排斥の動きが強まり、1882年に中国人移民を禁止する中国人移民排斥法が制定された。排除の動きは国内で盛んになり、人種差別や殺人事件なども起こった。

帰国後の生活

帰国を余儀なくされた一部の華僑は、開平に西洋風の望楼を建てた。だが帰国した華僑の多くは中国人に比べ裕福だったことから、しばしば盗賊に狙われることもあった。さらに珠江の氾濫よる水害対策も兼ねて、望楼の高層化がすすんだ。確かに実際に足を運んでみると、6階建てのものや、盗賊による攻撃対策として厚い壁で造られたものが多かった。壁の丸い穴は、攻撃に対抗する為にあるそうだ。自力村でひと際目を引いたのが、銘石楼である。実際に現物を見た時、巨大建築の割に小さな窓が多いという印象を受けた。よく見てみると、鉄が使われていた。鉄を用いた小さな窓は盗賊による攻撃対策であると思われる。

中国SV2016:自力村訪問〜華僑たちの軌跡を巡る〜 写真2 中国SV2016:自力村訪問〜華僑たちの軌跡を巡る〜 写真3

華僑は海外で過酷な労働に耐え財を成し、故郷に潤いをもたらした。その一方裕福であるがゆえに盗賊の標的になることもあった。ゆえに建築物は更に高く、頑丈であらゆる対策を兼ね備えた造りになっていった。碉楼は、彼らが歩んだ道のりを象徴するものといえるのではないだろうか。