中国SV

香港の水上居民

陳鶯(チン・エイ)
人間文化課程 2年

19世紀半ばアヘン戦争以前の香港に住む人々は、主に4つのグループがいた。それは、「水上人」、「福老人」、「本地人」、「客家人」である。今回訪れた大澳は昔から「水上人」と呼ばれる水上生活者が暮らしてきた場所だった。SVの事前学習で鑑賞した映画「浮城」(2012年)は香港の「水上人」の生活を背景にした映画である。今まで、香港は国際金融都市として、政治や経済的側面ばかりが関心を集め、歴史や文化についての関心は比較的少ない。この映画は1940年代末から香港返還までの水上生活者たちの姿をスクリーンに刻み込んでいたが、それでは今の香港の水上人生活状況はどのようなものだろうかという疑問を持って、大澳を訪ねた。

香港水上人の生活状況

船での作業の様子

船での作業の様子

人間の住まいやくらしは、それを取り巻く風土や地形から大きな影響を受け、そこでのくらしを支えるバナキュラーな建築物を作り出す。香港では、住まいとして水上に住居を構えるという居住様式の発生原因は自然環境の影響であったりする。季節によって漁場を求めて移動し、魚介類を採取してくらす生活であり、時折、採った魚介類を近くの市場に水揚げするといった魚労生活を営んでいる。香港の場合、船を利用したものは船本来の移動や運搬、漁業のための機能を持ちながら、住まいとしての居住機能も兼ね備えている。そして、この船での生活を営む「水上人」のことを「蛋民」とも呼んでいる。

水上人の文化特徴

海豊県出身で中国民俗学の祖の一人でもある鐘敬文(2002[1926]:410-412)は、陸上がる前の民国期の「蛋民」についての報告のなかで、以下のように記述している。

居住:
「戴母船」あるいは「住家艇」という小船を家とし、通年水面に浮いている。
衣服:
多くは粗悪な木綿の衣服を着ている。経済的な事情により、衣服は乞食のようにぼろぼろであるものが少なくない。
装飾:
男女みな裸足で、履物は履かない。帽子をかぶるものは極めて少なく、寒い時には黒布で頭を覆う。女は長さ3寸に達する耳飾りをしており、誠にユニークな装飾である。男は耳や足に多くの装飾品や足環をつけている。
風俗:
(略)嫁入りの時は、陸上居民同様、夫方はかならず嫁方に送り物をする。婚礼時には「食圓」の風習もある。嫁は夫方に着くと、祖先を参拝し、その後嫁方に戻る。しばらくして後、嫁方から夫方へ再び移動する。新婚の夜は近所の 若い女性たちが船を移り歌を歌う。
結婚式の流れ

結婚式の流れ

水上人の衣服

水上人の衣服

大澳の水上生活者が住む棚屋

棚屋

棚屋

漁民たちは幾世紀にもわたって大澳で生活を営んできたが、この地に最初の水上棚屋が建てられたのは、およそ200年前のことであるとされている。それまでは固定した住まいを持たず家族全員で小さな船上に暮らしていた漁民たちが、老人や子供達の安全のために岸辺近くの水上に固定した家屋を構築したのが始まりだといわれている。もっとも初期の水上棚屋では石柱を基礎に用いていた。壁は木板でつくられ、屋根は落葉で覆われて、風に対する備えとして上から漁網が被せられた。基礎については、後にマレーシア産の硬木がマカオ経由で輸入されて用いられるようになり、今日ではコンクリート製の基礎も多く用いられている。1960年代以降になると、棟高を制限高以内に収めつつ軒高を2層分確保するために、屋根勾配を小さく取るものが多くなった。ほとんどの水上棚屋にはデッキが付属している。これは当初必ずしも水上棚屋同士を結びつけるものではなかったが、後に陸上アクセスの必要性により通路としてのデッキか増築され、最終的にはほぼすべての水上棚屋がデッキを介して連結するようになった。

水上人減少と現状

蛋民は、第二次世界大戦前の最盛期には香港全域に十五万人以上いたが、今では全人口の一パーセント(六千人)足らずに減少してしまった。特に香港島では激減している。その原因は何だろうか。蛋民は香港では漁業の要であり、漁業や香港中華料理は彼らによって支えられてきたといえる。減少しているのは人間だけではなく、彼らの使用していた漁船も減っている。漁船が減少するということは、魚獲物もまた減少すると思われるが、魚獲物は逆に増加している。これは、漁船の近代化による動力化と漁業生産の効率化および漁場の拡大が影響している。このことが、実は水上生活者を減少させる最大の原因となった。さらに、外的な要因としては、社会・経済機構の変革によって海岸の埋め立てが始まり、これが浅海の漁業に大きな打撃を与え、水上社会の形成の場を脅かし、陸域での生活へと人びとの目を向けさせる構図をつくり上げてきた。内的な要因としては、水上生活ということで被る不便さを若い世代が嫌い、さらに戦後生まれの親たちかが自分たちと同じ生活を望まなくなったこともある。その一方で、生業としての漁業はやめても海とのかかわりを捨てきれず、水上での仕事に従事することを望む人びともいて、こうした人びとは艀(はしけ)や渡し船などによる運搬作業や港湾荷役など水上を中心とした労務に携わっている。そのため、現在では三割(二千人)ほどが漁業従事者で、残りが他の水依存や水関連の仕事に従事している。一方、1950〜70年代の新聞記事および関連する研究によると、この減少は行政当局のイニシアティブによって水上生活者が陸上に住み替えた結果であると指摘されている。岸佳(2016)によると、公営住宅の確保ができなかったり、行政当局側の連携がスムーズにいかなかったりなどの原因で、まだ一部の人は大澳に残って水上生活を続けているということだ。

実際に現地を訪問して、船で作業している人たちの姿を見たり、民俗館を訪問したり、棚屋の見学などをしてみると、大澳は時代の流れに取り残されたような、ゆったりとした時間が流れる街だと思った。近代化と共に香港が失ったものが、まだこの街には残っていると感じた。さらに、陸上に生活している私にとって水上生活者の歴史や生活の現状について知るいい機会になった。

現在の大澳街の様子

現在の大澳街の様子

大澳海岸の様子

大澳海岸の様子

参考文献