中国SV

「食在広州」からみる広東人のこだわり

田中郁未
人間文化課程 2年
中国SV2016:「食在広州」からみる広東人のこだわり 写真1

中国には昔から「生在蘇州、穿在杭州、食在広州、死在柳州」ということわざがある。これは「子どもの生まれるのを喜び盛大なお祝いを行う蘇州で生を受け、杭州の上質な絹織物を身にまとい、広州の美味しい食事を食べ、柳州の豊かな材木によって作られた棺に入って死ぬという生き方が中国人にとって最高の人生である」と言う意味である。この中でも広東省・広州市について触れている、「食在広州=食は広州に在り」という言葉は一度は耳にしたことのある言葉ではないだろうか。しかし、これは単に、広州の食事が中国の中で最も美味しいという意味ではなく、広東人の食へ対する強い執着を表している。

広州では、四足は椅子と机以外、飛ぶものは飛行機以外、二つ足は親以外の物は食べると言われており、広州市内の市場を見渡すと肉一つとって見ても、牛・豚・鶏・羊と日本でよく見かけるものを始め、鳩・蛙・ロバ・犬・猫といった食用として用いられていることにいささか疑問を感じる生き物も並んでいるのを目にする。さらにレストランで鶏料理を頼めば、それこそ頭の先の鶏冠からつま先に至るまで、鶏の全身が余すところ無く、当然のように皿の上に乗って運ばれてきた。およそ世界の料理の中でも広東菜(料理)発祥の地・広州ほど食材の種類が広範囲に及ぶ所はそうはないだろう。

市場に並ぶ様々な種類の肉

市場に並ぶ様々な種類の肉

日系スーパー内の新鮮な魚を販売するためのいけす

日系スーパー内の新鮮な魚を販売するためのいけす

広州に根付く外食文化

もともと中国では外食の習慣が盛んであったが、中でも広州はその傾向が顕著である。2009年の広州市経済貿易委員会のデータによると、広州市全域の一人当たりの年平均外食費は5063元(2009年当時で約6万9600円)にも上り、中国全国平均の約4倍以上の消費額であった。広州では外食そのものが文化として住民に深く根付いているのだ。特に滞在中、朝食を外食で済ませる広州に住む人々を多く目にした。事実、我々が滞在していた間、頻繁に利用していたホテルの周辺の飲食店では、早朝からほぼ毎日、小さい店内ではあったが、私たちのような旅行者ではなく地元の人々で満席であった。日本では働き盛りの30代男性の朝食の欠食率が25.6%と、1/4以上の人が抜いており、近代化に伴い朝食の重要性が薄れている現状である。さらに日本で手軽に、しかも安く朝食を外で済ますなら、いわゆるファストフードでのジャンクフードをまず思いつくだろう。今では朝食メニューが充実してきた飲食店もあるが、それでもあえて、朝食を外で食べようとする日本人は少ない。それは外食頻度の高さをそのまま不健康さにつなげて考える人が多いからではないだろうか。それにもかかわらず、広州で外食での朝食が受容されているのはそのメニューに起因しているに違いない。

飲食店「鮮一味腸粉」の粥

飲食店「鮮一味腸粉」の粥

広州で朝食と言えばなんといっても“粥”である。しかし、食べてみるとわかるように、日本のお粥とは違う点も多い。まずは、広州の粥は砕いた米で作られており、器の中で米はほとんどその原型を留めてない。さらに日本のお粥のよりも、汁気が多く、とろみがあるスープのような印象である。ここで注目すべき点は、粥に使われる米の種類である。日本で主流であるジャポニカ米で同様な作り方をすると、米を砕いた際にその豊富なでんぷん質がスープに溶け出し、もったりとした重たい印象になる。しかし、中国で言う米がジャポニカ米と比べて、でんぷん質が極めて少ない、いわゆるインディカ米であり、粥も粘りの無いインディカ米を原料に作っているため、粉砕して食べやすくしても軽い食感のままの朝食にぴったりな粥を実現している。他にも広州では “腸粉”という米粉の皮に様々な具材を巻いたものを醤油ベースのタレで食べる点心の一つが朝食の主流として存在するが、どちらも主食が米である広東人が、食欲の湧かない朝から食事に効果的に米を取り込む知恵が窺える。

麺から見る広東人

看板にも”面”と”粉”の表記が

看板にも”面”と”粉”の表記が

“麺”もまた、広州滞在時に私たちの食事に頻繁に登場した。日本で“中華麺”というと一般的に小麦粉で出来た黄色みがかった麺を想像するだろう。もちろん広州でもそのような中華麺を見かけることもあるのだが、メニューを覗くともう一種類の麺の方が主流であるように見受けられた。その麺は、私たちがよく知る中華麺が“面”と表記されているのに対し、“粉(ファン)”と呼ばれ、いわゆる米粉で作られたライスヌードルであった。ライスヌードルと言えば、最近の日本でもベトナムのフォーなど食べる機会が増えてきているが、その起源は中国にあるという。

中国は麺食文化発祥の地でもある。その歴史を少し辿ってみる。そもそも河北省邯鄲(かんたん)の戦国時代(紀元前403〜前221)の遺跡から回転式の石臼が発見され、その石臼が紀元前1000年頃の西アジアのコムギ作地帯で発見されたことから、戦国時代にシルクロードを通って、西方からコムギを粉にして食べる技術がセットで伝えられ、漢代に入って普及したと考えられる。それでもコムギの粉食文化が西方では、パンのように練ったものを一塊にして焼き上げたものに発展したのに対して、中国では汁気をたっぷり持ち、細く平らにその生地を伸ばして食べる麺食文化に発展したのは、中国が世界に先駆けて、箸と匙と椀を合わせて使う文化を有していた影響が強いだろう。

同じく「鮮一味腸粉」の云呑面(わんたんめん)

同じく「鮮一味腸粉」の云呑面(わんたんめん)

しかし、この麺の文化、私たちが頻繁に食べた“粉”の起源は南宋まで時代を進めなければならない。新石器時代以降、アワ、キビ等の雑穀を栽培していた農業に西方からのコムギ文化が加わったのが中国北側の食文化の類型である。対して、現在の広東省をはじめとした南側はコメの粒食を主食とした文化が発展した。前述の通り、コムギの粉食とそれに伴う麺文化は中国北部で生まれたものである。この文化が南宋時代に、首都が南方に移ったことで、南でも粉食と麺が普及することになり、その影響から南の作物であった米から麺を作る技術が開発されたのだ。

このような経緯の中、広州では二種類の麺、“面”と“粉”が発展することとなり、コムギを栽培することの出来ない東南アジアにもまた麺の恩恵を与えることになる。

海のシルクロードと呼ばれて

広東省は中国大陸の中でも最南部に位置する省で、その首都広州は中国の南の玄関口としての役割を長年務めてきた。唐代にはアラブ人やペルシャ人の居留地も多く見られ、“海のシルクロード”と呼ばれたこの地では、今もなお、食の発展と発信が続けられている。例えば近年、広州に出稼ぎに来た、アフリカ人滞在者が数万人規模で増え続けており、広州には彼らの故郷のナイジェリア料理などを提供する店なども増え始めている。長期滞在する彼らが足しげく通うその店は、まさに彼らの故郷の味を正確に再現しているのだろうが、果たして日本や他の省で同じことができるだろうか。思えば、日本で最も多く目にするの中国料理体系は広東料理である。世界にはフランス料理店と同じ数だけ広東料理店が存在するとも言われている。広州を訪れる他国の人々を魅了する広東料理や、時には母国の料理を再現しうる食材の豊富さこそが、中国の物流のグローバル拠点としての役割を担うに至る原因の一つのように感じる。「食在広州」、改めてこの土地の人々の食へのこだわりに感服する。

参考文献