ウィーン工科大学前にて
This year the Vienna SV (Short Visit) was held from December 6th to 18th. The visit was led by Professor Komiya, and 13 students participated.
The first two days (December 7th and 8th) were on the weekend, so we went sightseeing. The following week, (from December 9th to 11th) we had some lectures at the Vienna Technology University. The lectures were about culture and history of Vienna. Lectures were held not only in the classroom, but also outside. We walked around the city and looked at some of the places which were mentioned in the lecture. December 12th, 14th and 15th were free days, so we went on field works on our own. In addition, we also had a one-day excursion to Budapest. (December 13th) Both Vienna and Budapest are related to the Hapsburgs, but their sceneries were quite different.
During free times, we all went to many places, choosing wherever we wanted to go. We each had our own theme, and we researched them one by one.
Through this SV, we learned a lot of things, and we had a really great time.
(岩崎羽衣、朴天丞作成)
ウィーン及びハプスブルク家の治めるオーストリア帝国では、19世紀末、そして20世紀に亘る期間、今日においてもその名声を轟かせる偉人たちが嚢中の錐の如く次々と輩出され、文化の最盛期とも称される世紀末ウィーンの時代が生まれたのである。
当時、皇帝フランツ=ヨーゼフは彼の絶対主義的権力を以て「ウィーン大改造」を進めた。皇帝の資金源として招かれたユダヤ人ブルジョワジーはウィーン大改造の核心と言われるリング通りを築き上げた。リング通りとは、かつてウィーンを囲んでいた城壁を取り壊した跡地に作られたものであり、その名が示す通りウィーンの中心街(1区)を円く取り囲む環状道路を指す。また同時に、市庁舎、国立歌劇場、様々な博物館など、ウィーンに欠かせない重要な建物が環状道路沿いに建てられ、リング通り=リンクシュトラーセは、これらの道路と建物を全て含む概念とも化した。
だが、傍から見れば輝かしく、歴々神聖ローマ帝国の皇帝を輩出したハプスブルク家に相応しく、威容に満ちた姿を誇るようなウィーン大改造は、その中身を欠くものであった。歴史主義の華麗かつ壮大な建物が並び立つリングに囲まれた帝国の心臓は、その腹中に空無を育み、帝国を維持するための政治力や経済力、軍事力を徐々に失くしていた。このようなウィーンの二重性、矛盾性は遂に、市民階級、そしてブルジョワの中でも分裂を産むこととなる。
ウィーン大改造がユダヤブルジョワジーの手によって行われ、ちょうどその2世代目が成人になる頃には、次世代ユダヤ人によるウィーン及びその社会文化への批判、その時代に蔓延していた「歴史主義に対する反発」が現れるようになった。ヨーロッパ文学者の高橋吉文はこれを「ユダヤブルジョワジーの子らによるリング内の空無から分離」(高橋吉文,1994)と捉えている。 私はウィーン市内のフィールドワークを通じて、ウィーンに残された様々な分野における世紀末文化が含んでいた当時の社会像に対する分析を行い、かつそれが現代人にとってどのように認識されているのかについて研究を行った。
ウィーンの世紀末においては、歴史主義的芸術文化からの分離を唱え、ウィーンでは様々な芸術家がそれぞれのやり方で19世紀から20世紀への越境を図り、モダニズムを追求してゆく。とりわけグスタフ・クリムトは その代表格であり、彼の作品は当時の芸術界に大きなセンセーションを引き起こした。
クリムトは1897年、彼と意を共にする芸術家や建築家などを募集し、自身が所属していた芸術家集団「クンスラーハウス」から脱退、その後「ウィーン分離派」を立ち上げる。そして、彼らの活動の象徴的な顕れが、建造から100年経った今でもウィーンに残っている「分離派会館(Secession)」である。
分離派会館
分離派の集会場及び作品展示室として使用されたこの建物は、著名な世紀末ウィーン建築家オット・ワーグナーの弟子であり、分離派のメンバーであるヨゼフ・マリア・オルブリッヒの建築である。ウィーン大改造により、数々の歴史主義的建物が建てられていた当時のリング通りの中核に 立地し、存在感と異質性を放つこの建物は、さぞや大きなセンセーションを巻き起こしたのであろう。分離派会館の正面入口の真上に書かれた金色に輝く文句「Der Zeit ihre Kunst, Der Kunst ihre Freiheit―時代にはその芸術を、芸術にはその自由を」は、歴史主義からの脱却、モダニズムへの追求を唱える分離派の精神を一目瞭然のうちに表している。
分離派会館は建造当時の100年前こそ分離派の作品展覧会の催しや、建物自体がモダニズムの顕現として意味と役割を果たしていたが、その精神や象徴性は今日まで続いていると思われる。分離派は1918年に解散したものの、分離派会館は今を生きる現代芸術家たちの場所として活用されている。分離派会館の地下にはクリムトのベートーヴェン・フリーズの展示室があり、クリムト及びウィーン分離派の説明と遺品が博物館のように展示されていた。しかし、それ以外の展示スペースは現代アートの展覧会が催され、また一般には公開されていないが、芸術家たちの作業場が設けられていた。以上のことから、分離派会館は現代においても、芸術界におけるモダニズムの象徴として認識されていると考えられる。
もちろん、世紀末ウィーンの文化を彩っていたのはウィーン分離派をはじめとする、視覚文化の世界に留まるものではない。(とりわけアジア諸国において)ウィーンは「音楽の都」と言われており、音楽界に関しても世紀末文化の特徴が現れている。世紀末ウィーンの作曲家であり指揮者であったグスタフ・マーラーは、1897年ウィーン宮廷歌劇場(現在の国立歌劇場)の楽長・芸術監督に任命され、翌年には ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者に採用された。彼の指揮は、「超モダンな指揮者(Ein hypermoderner Dirigent)」というタイトルのカリカチュアが描かれる程、当時の音楽界におけるモダニズムの一角を担っており、その音楽は世紀転換期における越境の痛々しさ、既存のものから脱却を企みながらも、どことなく囚われている二重性を醸し出しているとの評価を得ている。
ここで興味深いことに、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地であるウィーン楽友協会の建物が、非常に歴史主義的だということである。楽友協会はマーラーの活動が本格化するおよそ10年前の1870年に竣工されている。写真は楽友協会の大ホールであるが、「黄金のホール」という別名が付くほど絢爛豪華な装飾で覆われたデザインである。ウィーン楽友協会では毎日、オーストリアを含む世界各国の様々なオーケストラによる演奏会が開催されるが、世紀末ウィーンが誇る作曲家であるマーラーの交響曲は重要なレパートリーの一つである。世紀末ウィーンのモダニズムの象徴であるマーラーの音楽が、ウィーン大改造の歴史主義を表象する楽友協会の「黄金のホール」を響かす姿は、分離されるべきであろう両者の異質なままでの融和、世紀末ウィーンが孕む二重性や矛盾性を現代においても体感させるものである。
黄金のホール
ウィーンSVを通じて、今まで写真やレプリカ、文献のみを頼りに研究していた、世紀末ウィーン文化の実物を体験することができ、一層研究に深みを与えることができた。もちろん、今回のSVだけでは世紀末ウィーンという壮絶な越境の物語は読み解き切れないものであり、これからもさらに深い研究と解釈が必要である。それは単に100年前の「歴史を学ぶ」という行為に留まるものではなく、現代を生きる私たちに「その生き方は果たして正しいか」という疑問を投げかけるものであり、混乱の時代に変革を試みた彼らの孤独な宇宙への探究・跳躍は停滞する社会を呼び覚ます一喝であると考える。
My research theme for the Vienna Short Visit Program was the culture of the Fin-de-Siecle Vienna. The main interest of mine was the Vienna Secession, which was an art movement organized by Gustav Klimt in 1897. Through my field work, I was able to appreciate the Secession building and Klimt`s works like the Beethoven Frieze. But also, in overall view, I was able to encounter many unpredictable aspects of the Fin-de-Siecle Vienna like music history, or even the way to use the palace of the Habsburgs nowadays. Shortly, in my opinion, the culture of the Fin-de-Siecle Vienna still has great influence throughout Vienna and Austria, as a symbol of modernism.