台湾SV

九份観光と『悲情城市』 — 金瓜石との比較調査

柴野 真理

はじめに 九份と『悲情城市』

新北市瑞芳区九彬、いわゆる九份は一般に台湾映画『悲情城市』の公開がきっかけで観光地として脚光を浴びたと言われ、台湾を代表する観光地として知られている。近年では、『千と千尋の神隠し』のモデル地であると噂になり注目を集めるなど、他の作品のロケ地として使用されることも少なくない。しかし、鉱山街であった九份は1971年に金鉱が閉山され衰退していき、1989年の『悲情城市』公開以後に観光地として再興しており 、九份の観光地化のターニングポイントに『悲情城市』があることは間違いない。その一方で、ロケ地として九份が使われたシーンを挙げた表1(九份から見える深澳灣を映したシーンも何度か登場するが九份自体が映されているわけではないので、ここでは省略する)を見ると、『悲情城市』において九份がロケ地に使われているシーンはあまり多くないことがわかる。メインでロケ地として使用されており、かなりシーンが多いため今回はリストアップしないが、同じ新北市瑞芳区に位置する隣町の金瓜石の方が圧倒的に多い。それにもかかわらず、金瓜石の方は九份のように大々的な観光地化はされておらず九份ほどの知名度もない。つまり、『悲情城市』のロケ地であるということのみが九份を観光地とした理由である、とは言えないのである。

表1:九份が使用されるシーンと、使用された場所(劇中での地名と実際の地名)
シーンの概要作中での地名・店名実際の地名・店名
① 知識人たちの宴会黄金酒家悲情城市
② 主人公が焼き鳥を買う特になし豎崎路、昇平戯院前広場
③ ヤクザの宴会黄金酒家悲情城市
④ ヤクザのもうけ話特になし豎崎路

なぜ、『悲情城市』を通して人々は九份に注目したのだろうか。『悲情城市』に関する研究は、映画として論じたものだけでなく台湾社会や言語、食文化など様々な観点からなされているが、ロケ地に着目したものは見られない。また、九份に関する研究も観光に関するものは散見されるが、空間や建築物などに着目したものが多く『悲情城市』を主題としたものは見られない。

そこで、今回の台湾SVでは『悲情城市』によって九份が観光地化した理由を考える足掛かりとして、今日の九份で『悲情城市』がどう扱われているのか、ロケ地の現状や観光客の動向観察から考察することとした。また、金瓜石についても同様に観察し、観光地として、ロケ地として九份との相違点を検討する。現地での調査日は2019年9月15日(日)であり、金瓜石の黄金博物館周辺を調査したのち、九份老街周辺を調査した。

1 金瓜石 — 置き去りにされた『悲情城市』

2004年にオープンした金瓜石を代表する観光スポットである黄金博物館はバスでやってきた観光客で賑わいを見せていた。施設内の建物のひとつである太子賓館は、『悲情城市』で撮影に使われている。しかし、いくつかあった大使賓館の立て看板の説明文はそのことに触れていなかった。

博物館には、そのほかに鉱物を展示している施設や、200kgの金塊に直接触れる施設などがあり、金鉱開発によって建てられた日式建築、鉱物、金瓜石の歴史、の三点から構成されていた。観光客のほとんどがまんべんなく展示を回っており、太子賓館にも立ち寄っていたが、これを目的に訪れている様子や『悲情城市』のロケ地として見ている様子はなかった。また、展示だけでなく博物館の敷地から見える山々の景色も観光客を楽しませる要素になっていた。

台湾SV2019:

写真1 八角亭(筆者撮影)

博物館の入口すぐ下の階段を降っていくと、『悲情城市』で使用された八角亭(写真1)や昔日市場などの跡があるが、金瓜石を訪れる観光客は一人残らず黄金博物館を目当てに来ていると言っても過言ではないほど博物館以外に向かう人はおらず、ロケ地周辺に人影は一切なかった。どちらのロケ地も今では当時の面影がほとんど見られず、八角亭の方は台風で飛ばされずに残った建物の土台部分がかろうじて残っている程度であった。ロケ地の手前には八角亭や昔日市場の方向を指す古くなった立て看板があり、『悲情城市』が上映されブームが起こっていた際に九份だけでなく金瓜石の方にもロケ地を見に来る観光客の存在があったことを推測できる。

2 九份 — 影を潜める『悲情城市』

台湾SV2019:

写真2 のぼり(筆者撮影)

九份はバスを待つ行列ができるほど観光客であふれていた。特に、夕刻が近づくにつれ夕日や夜景を求める観光客が続々と訪れていた。昇平戯院では『悲情城市』の宣伝に使ったのぼり(写真2)と看板が展示されていたが、以前は展示されていたという『悲情城市』の撮影で使われた小道具は見当たらなかった。多くの観光客が出入りしていたが『悲情城市』ののぼりや看板に注目している様子は見られなかった。表1の①、③のシーンで使用されていた茶藝店、「黄金酒家(悲情城市)」に立ち寄ったが、私たち以外に客が入る気配はなかった。店外にある『悲情城市』について説明する看板もかなり古くなっていて足を止めて見ている観光客はいなかった。また、映画では宴席シーンで映る窓から深澳湾が見えていたが、実際に撮影で使われたであろう席の窓の前に新しく店ができており、その景色を見ることはできなかった。窓ガラスのステンドグラスのようだったところも普通のガラスであり、撮影されたときと同じ内装ではなかった。表1の②、④のロケ地となった豎崎路は、階段の両脇に茶藝館や土産物屋などの店が連なっており、階段を上下する観光客の列ができるほど賑わっていた。「黄金酒家(悲情城市)」の向かい側にある「阿妹茶楼」という茶藝館の看板にも『悲情城市』と書かれており、そこら一帯が『悲情城市』でロケ地として使われていたことを表していた。しかし、「阿妹茶楼」の方には店外からそれ以上『悲情城市』のロケ地であることを示すものは見られなかった。豎崎路と交差する軽便路では、映画に出てくる深澳湾のシーンと近い景色を見ることができた。軽便路からの景色を写真に収める観光客は多くみられたが、『悲情城市』のシーンを想起していたかはわからない。

九份において『悲情城市』の文字列が目についたのは昇平戯院内の展示と豎崎路の「悲情城市」と「阿妹茶楼」の看板のみであった。一方で、『千と千尋の神隠し』の文字は至るところで目に入ってきた。多くの土産物店でジブリグッズが売られていた。観光客がそれらを購入している様子はあまり見られなかったが、九份=『千と千尋の神隠し』という構図は受け入れられているようだった。

おわりに

金瓜石において、『悲情城市』のロケ地はすでに観光地として認識されていないようであった。九份のロケ地周辺も映画で映された街並みからはかなり変化しており、観光客の興味が向けられていないこと、撮影された当時の様子から大きく変わっていることに関しては九份も金瓜石と大差ないといえるだろう。しかし、金瓜石ではロケ地がある場所が人の訪れない場所になっているか、それについて一切説明されなくなっているのに対し、九份では今も観光客が多く訪れる場所にあり、かろうじてそれについての説明も残っている。九份の観光客は、意識的でなくても『悲情城市』を受容しているのである。今回の現地調査から九份の観光地化に『悲情城市』がどう関わったのか理解するのは不可能だが、見えてきた現状は今後の調査にも有用であろう。

1 伊藤空、波多野想「商業施設を通してみる九份の観光地化に伴う空間変容の研究」『日本観光研究学会全国大会学術論文集』30巻、2015年所収 参考。

参考文献
  • 頼俊仰、佐々木誠「8003黄金博物館エリアの施設管理と維持に関する研究」『日本建築学会関東支部研究報告集』85巻、2015年。
  • 遠藤英樹『ガイドブック的!観光社会学の歩き方』春風社、2007年。
  • 国土交通省 観光庁『観光白書(令和元年版)』昭和情報プロセス株式会社、2019年。
  • 波多野想「金瓜石鉱山の文化的景観を再読する」『新北市黄金博物館学術雑誌』7号、2019年。
  • 「交通部観光局」https://jp.taiwan.net.tw/、2019年12月2日最終閲覧。
  • 「アジア城市(まち)案内」制作委員会『台鉄に揺られて「自力で九份」: 路線バスとレトロ鉄道に乗って九份と十分天燈上げ』まちごとパブリッシング、2018年。
  • 大岡亜沙美、川島和彦、高瀬次郎「7051台湾・九份における住宅地の街路空間特性に関する研究」『学術講演梗概集』2010巻、2010年。
  • 波多野想、平澤穀「台湾の「文化景観」にみる空間・法・社会」『遺跡学研究:日本遺跡学会誌』12巻所収、2015年。
  • 波多野想「9025明治末期の金瓜石鉱山における施設の整備:日本植民地下台湾における鉱山景観の形成と変容に関する研究その1」『日本建築学会関東支部研究報告集Ⅱ』79巻、2009年。
  • 芦川智、金子友美、鶴田佳子、高木亜紀子「麗江(中国),九份(台湾),伊香保(日本)等の歩行者空間 : アジアの歩行者空間に関する研究(その1)」『学苑』793巻、2016年。
  • Flannery Wilson,NEW TAIWANESE CINEMA IN FOCUS,Edinburgh University Press Ltd,2014.