セドラ(Cédrat)の原産地はインドのヒマラヤ。2000年ほど前にペルシャ・トルコ・ギリシャを経て地中海地方にもたらされた最初の柑橘。ユダヤ人の宗教祭典である「仮庵祭」に供えられる果実「エトローグ」はセドラである。レモン・オレンジの共通の原種とも言われる。レモンの5~6倍の大きさがあり、表面はでこぼこでゴツゴツとしている。
日本人はもとより、フランス人でさえ全くなじみのない柑橘セドラ。この名称はフランス語のもので、日本語では「枸櫞(クエン)」、英語では「シトロン」と呼ばれる。長谷川先生によれば、コルシカ語では「リメア」「リミア」「アリメア」などというそうで、アラビア語の「レモン」を指す「ライムーン」から来たのではないかということだ。
コルシカ島へは古代ローマ時代にもたらされたといわれている。19世紀後半ごろから、カップコルス半島西岸一帯で農業生産が広まった。島内の醸造企業「L.N.マテイ」がセドラのリキュール「セドラティーヌ」を製造、欧州はもとより北米にまで輸出していたことから、セドラとその加工業はカップコルス半島の一大産業になった。
第一次大戦で生産、加工が滞り、セドラティーヌの需要も落ち、戦後、より安価なイタリア産セドラが増えたことで、コルシカのセドラ栽培は壊滅。以後100年近くの間、セドラ果樹園は放置されていた。
近年のアグリツーリズムの高まり目立った産業のないカップコルス半島西岸地方で1990年代から復興計画がはじまり、その中心となったのが当地方中心地のノンツァ村であった。
ノンツァはかつてのセドラ積み出し港として繁栄した村である。しかしのち100年間停滞と衰退。ノンツァ村は、地域をあげてセドラを栽培しようと100年前から放置され雑草や灌木の密林となり果てたかつてのセドラの段々畑を整備し、そのための公社も設立し、村の中心部にセドラ資料館も開設し、これらの事業や運営のための補助金も受け取ったが、大規模な栽培は失敗に終わってしまい、多くの木々は放置状態、セドラ資料館も閉館に追い込まれた。
一方、ノンツァに北隣するさらに小さなバレッタリの村に個人農家がある。グザヴィエ・カリヅィさん。 専業農家でなくバスティア近郊のホームセンター従業員。自宅もバレッタリでなくバスティア近郊。この村は父親が生まれ育ったところで、土地も父親から引き継いだものである。
兄弟で農業を継ぐ際、兄はオリーヴ栽培を選んだことから違う作物を、ということでかつてこの地に盛んなセドラ栽培にチャレンジ。セドラ栽培はノンツァでの再興構想が挙がった2010年ごろから開始。
生食には向いておらず、カニストレッリやアイスに混ぜるなどの方法で食される。画像を見て分かるように、皮が分厚く、実は少ない。今回訪れたセドラ農家の方には、砂糖漬けとジャムを頂いた。個人的な味の感想は、砂糖の甘さとセドラのほろ苦さが丁度よく、とてもおいしかった。砂糖漬けは分厚い皮が柔らかくなっており、相当な量の砂糖を使わなければセドラの苦さに負けてしまうのではないかと思った。レモンの原種ということもあり、柑橘系特有のさわやかさもある。セドラの食品以外の使用用途としては、石鹸、香水、ハンドクリームなどの開発が行われており、様々な商品が展開されている。