コルシカ島には、フランス国旗とは別にコルシカ旗が存在する。フランス国旗といえば赤、青、白の三色旗であるが、コルシカ独自の国旗は、白いはちまきを巻いたムーア人の黒い横顔(「テスタ・モーラ」と呼ばれる)をあしらったものである。ムーア人とはアルジェリアやモロッコ、チュニジアにイスラム帝国が築かれる以前の古くから住む人々のことであり、このムーア人の横顔は南隣のイタリア領サルデーニャ島の旗にもなっている。コルシカ島独自の旗がつくられたのは、コルシカの独立の歴史と独立運動を指導した人物が深く関わっているのである。
コルシカ島の「ムーア人の横顔」
サルデーニャ島の「ムーア人の横顔」。4つあるのと、
右向きになっている点で、コルシカと異なる。
現在コルシカ島の至る所で見られる「ムーア人の横顔」をコルシカ旗に決めたのは、独立指導者であったパスカル・パオリという人物だ。「ムーア人の横顔」は、もともとスペイン東部のカタルーニャ地方を拠点とするアラゴン王家の紋章であった。
アラゴン王家紋章
ではなぜ、アラゴン王家はカタルーニャ人ではなく、ムーア人の横顔を紋章としたのか。これには諸説あるようだが、要はムーア人とは中世初期に本拠とする北アフリカ西部から度々コルシカを含むヨーロッパ地中海地域を襲撃した侵略者で、コルシカやサルデーニャ島民はこれに抵抗する術をもたなかったが、アラゴン王家の騎士たちはムーア人の侵略を食い止め、討伐したのである。すなわち「ムーア人の横顔」はアラゴン王家騎士たちによる「戦利品」としての「ムーア人の首」というわけである。中世とりわけ戦国時代の日本も、「武士の首」は「戦利品」として持ち帰り、報奨と交換されていた歴史があるが、アラゴンにとっては「ムーア人の横顔」とは敵の首を切り落としたという誇りを象徴するものである。ムーア人が「目を隠されている」ことも「首切り」を意味するものである。パオリのムーア人は「目を見開いたもの」に変えられている。コルシカにとってムーア人とはかつて襲撃をくわだてた蛮族であるが、旗のそれは「敵」ではなく、「光が見える」コルシカ人自らとして置き換えているのである。
パスカル・パオリはかつてジェノヴァ共和国によって支配されていたコルシカの独立に貢献した、民族の英雄である。
パオリはコルシカ島において近代国家の基礎を作りあげた人物といえる。憲法草案の作成をジャン=ジャック・ルソーに依頼し、国立大学や国会にあたる議会を創設するなど、コルシカ島の独立に大きな影響を与えた人物である。
民家の窓枠の外側に置かれるパオリ像
250年前のパオリの腕に、現代のコルシカ女性が腕を組んでショッピングをする壁画。アジャクシオ市内のフェッシュ通りのモード店にて。左上にはUna storia(ある歴史/物語)と書かれている。
コルシカ島がフランス領になったのは、1769年のことである。コルシカは紀元前からローマによる支配が始まり、ローマ崩壊後ゲルマン民族系のヴァンダル王国とイスラム勢力による侵略をうける。中世に入りピサ共和国やジェノヴァ共和国というイタリア半島の支配下に入り、1284年にコルシカがジェノヴァ領となる。そして1725年にパスカル・パオリが誕生する。1729年からコルシカ独立戦争が始まる。パオリ家は当初ナポリに亡命していたが、立派な軍人に成長したパオリはコルシカ独立のために島に戻る。四十年戦争とも呼ばれる長い独立運動を経て、1755年にパオリはコルシカ独立を宣言する。コルテに独立政府が置かれ、独立国家の基礎であるコルシカ憲法、国旗、通貨、軍隊、大学などがつくられた。ヴェルサイユ条約によりジェノヴァがフランスにコルシカを移譲するまでの14年間、コルシカは独立状態にあったのだ。
ムーア人の横顔が国旗になった理由は諸説あると言われているが、コルシカが辿ってきた支配と独立の歴史が関係しているといえるだろう。コルシカ島内には、この旗が至る所に掲げられており、フランス国旗を目にすることは少ない。このことからコルシカ人の民族意識の高さがうかがえる。土産物店を訪れると、旗のモチーフとなったムーア人の横顔がデザインされているマグカップやポストカードなどがたくさん並んでいた。またコルシカ島の独特な島の形をモチーフにしたロゴも多く、コルシカの人々の島に対する愛着がとても強いのだと感じた。コルシカ人にとって、この島旗は独立のシンボルのような存在であるといえる。
また、ムーア人の横顔を独立コルシカの国旗と定めた英雄パオリも、コルシカ人のアイデンティティ形成に強い影響を及ぼし、画像にあるように日ごろから島民に親しまれている存在であると言える。