台南の近郊にある烏山頭(うさんとう)ダムは日本統治時期の日本人技師八田與一によってつくられ、台湾の歴史における日本統治時代最大の工事であった。台湾の水利灌漑システムや、農業の発展に非常に大きい貢献をした八田技師は当地の台湾人だけでなく、日本人にもよく知られ、敬愛されている。スタジオメンバー全員が、事前に烏山頭ダムだけでなくその背景である当時の歴史や、社会背景を知る為、八田技師に関する胎中千鶴の論文『植民地台湾を語るということー八田與一の物語を読み解く』を事前に読んだ。また、近年台湾で大ヒットし、八田技師も登場した「KANO」(2014、馬志翔監督)という映画を鑑賞した。
日本統治時代に作られ、未だに使われている烏山頭ダムは、1930年に完成した時は東洋一番のダムと言われ、このダムで灌漑できる面積は東西71Km、南北100Km、合計15万ヘクタールで、当時は世界有数のダムであった。烏山頭ダムを中心に開発された烏山頭水庫公園の敷地はかなり広いが、敷地内から見えるダムの範囲はごく一部ということから烏山頭ダムの規模の大きさがよくわかる。
ダムの近くには八田技師の銅像とその妻、外代樹(とよき)のお墓がある。八田技師は考え事をする時、座り込んで髪の毛をつまんで考える癖があったので、その様子を再現した銅像が作られた。その銅像はダムの方向を向き、毎日ダムを見守りつつけている。そして、八田技師の銅像の後ろには妻の外代樹の墓がある。1941年、南方開発の政策でフィリピンに向かった八田技師は、船がアメリカ軍に攻撃され沈没し、命を落とした。妻の外代樹は亡夫のことを想い烏山頭ダムの放水口で投身自殺した。今、夫婦の物語は美談となっている。
ローマは一日にして成らずと言われているように、烏山頭ダムの様な大規模の工事は当然数日間で完成できるものではない。その背後には幾多の技師や建築者の努力があった。大規模な工事によって亡くなった人は多数おり、彼らを悼み八田技師は殉工碑を建てた。ダムから少し離れたその石碑には、ダム工事で亡くなった日本人と台湾人の名が区別なく刻まれている。
ダム近くの道端で見えるのは日本から送った両国友好を象徴する静岡県の桜だ。冬でも20度を超える台南の郊外で静かに咲いている。
1930年に完成したダムの前には「卧堤迎晖」という石碑がある。ここで、碑文の意味を考えながら年月を経ても変わらぬ湖の景色を眺めると、歴史の重さを感じることができる。
敷地内には八田技師の家屋が残されている。八田技師を記念するために作られた家屋だ。建築物自体が台湾にいるとは思えないほど日本らしく作られ、毎日机の前でダムのデザインに悩む八田技師の姿が目に浮かぶ。
台湾の南部にある烏山頭ダムは台湾の最大規模の農水施設であり、日本統治時代の重要な水利工事の一つである。また、台湾の歴史における日本統治時代の歴史的資料としても重要な位置を占める。現在開放されている烏山頭ダム公園の客の中には、台湾人だけでなく、多くの日本人も来ていると現地のガイドから聞いた。そのため、公園の看板にも中国語や英語だけでなく、日本語が書かれている。台湾人の観光客と日本人の観光客は烏山頭ダムで同じ土を踏み、同じ景色を眺めて、その歴史をどう感じるのだろうか。