台湾SV

台湾の鉄道遺産を巡って

藤原伸宜・寺嶋修平
都市イノベーション学府 都市地域社会専攻 修士1年

清国統治時代に初めて建設された台湾の鉄道は、今や台湾本島を一周する。その歴史はおよそ120年。そして今なお、台湾には多くの鉄道遺産が眠っている。今回のSVでは、2015年12月24日に二つの鉄道遺産を巡り、台湾鉄道の歴史に触れた。

1. 獅球嶺(しきゅうれい)トンネルから紐解く台湾鉄路の歴史

写真1:獅球嶺トンネル 別名「劉銘伝隧道」 [Taiwan SV2015]

獅球嶺トンネル

12月24日、我々は台湾北部の港町、基隆(キールン)の中心部からバスで10分ほどのところにある獅球嶺トンネルを訪れた。このトンネルが建設されたのは日本統治時代よりさらに前、清国統治時代である1890年に遡る。清国が台湾に派遣した台湾巡撫の劉銘伝が鉄道は国防上不可欠であると唱えたことから、台北〜基隆間の28.6kmに鉄道が敷設された。獅球嶺トンネルは1888年の春に着工されたものの、トンネル工事は困難を伴ったといわれている。一つ目の理由として、トンネルの北側部分の地質が硬い岩石層であるのに対し、南側部分の地質は水分を含んだ柔らかい泥質層であったことである。二つ目に、工期を短縮するためにトンネルを両サイドから掘り始めたのであるが、地盤高の測定ミスにより、トンネル内に4.27mの高低差が生じてしまったことである。

そして三つ目に、建設工事に携わった清国兵の質が悪かったことである。建設開始から30カ月後の1890年夏に、長さ235m獅球嶺トンネルが完工し、翌年の1891年には鉄道が走り始めた。1895年に台湾が日本に統治されて以降、台湾総統府により鉄道改良工事が行われた。獅球嶺トンネル付近は急勾配であったため、新線が建設され、獅球嶺トンネルは1898年に役目を終えている。現在、トンネルは苔でびっしりと覆われ、ひっそりと佇んでいた。岩石部にはタガネを入れた跡が残っており、当時のトンネル工事の苦労を伺わせる。台湾縦貫鉄道敷設計画において、初期段階に建設された獅球嶺トンネル。この獅球嶺トンネルこそが台湾鉄路発展の原点といえるであろう。

2. 七堵(しちと)駅旧駅舎

写真2:七堵駅鉄道公園 [Taiwan SV2015]

七堵駅鉄道公園 公園には七堵駅旧駅舎が保存されている。

日本統治時代、日本は台湾の発展のために鉄道建設を積極的に進めていった。七堵駅鉄道公園に保存されている七堵旧駅は、日本統治時代に建設されたもので、百年以上の歴史を持つ。土地利用の促進と地方の発展に協力するため、七堵前駅(旧駅)は2007年に台湾鉄道路線の切換に合わせて廃止され、木造の旧駅舎も無償で基隆市文化局に引き渡されることとなった。その後、元の姿のままで修繕を行い、木造駅の木材を取外し以前の住所から30mほど離れた鉄道公園に組み立て、同時に憩いの場をもつくり上げた。地方民意や文化歴史団体の努力と、市政府の力強い推進により、場所を移して保存する方法で台湾でも稀少な木造駅として残されたのである。

元々はヒノキで建てられていた七堵旧駅は、和式木造駅であり、その他木造駅とは違って釘が打たれていない特殊な駅である。そのため、一度解体して再組み立てを行う際、全ての建材一つ一つに番号を振り、予定地に移転された後は番号に従って一つ一つ組み立てて行った。組み立て途中に、多くの梁の上に「総督府」の文字が書かれていることが発見された。これは、日本統治時代、この駅が台湾総督府から直接命令されて建設されたことを表し、七堵駅が日本政府に重視されていたことがうかがい知れる。七堵旧駅には保有された木造構造のほかにも、ホームやレールも作られ、七堵駅のイメージが再現された。

七堵旧駅には、どこか懐かしさが漂い、親しみを感じさせるものがある。ここを訪れて、台湾がかつては日本だったのだと実感した。七堵駅は、台湾鉄道の歴史に日本が確かに存在していた証拠である。

台湾鉄道の歴史は大きく3つに分けられる。清国統治時代と日本統治時代、そして戦後である。それぞれ異なる背景があり、多くの困難があった。しかし、それがあったからこそ、今の発展がある。鉄道遺産は台湾鉄道の歴史を後の世代へ伝えていく。