1947年2月28日、台湾全土を巻き込んだ大規模な抗争が、台北市で始まった。これは、台湾本土に昔から住んでいた本省人の、第二次世界大戦後に台湾に移り住み政府要職などの地位に就いた外省人と中国国民党政府の抑圧への不満が爆発した結果起こった事件である。始まりは闇煙草を販売していた一人の女性の取り締まりへの同情であったが、広範囲での暴動へ発展し、反撃した国民党政府側による無差別な拷問・処刑にまで繋がった。この事件は二二八事件と呼ばれ悲惨な事件として語り継がれており、台北市の二二八和平記念公園には、二二八記念館という事件の詳細を知れる施設もある。また、この事件を扱った『悲情城市』という台湾映画は世界中で大ヒットを記録した。私達は事前に『悲情城市』を鑑賞し、関連論文として西澤治彦の『中国映画の文化人類学』と藤井省三の『中国映画――百年を描く、百年を読む』を輪読してからSVへ向かった。
私達は2月28日に行われたデモ行進のルートを歩いて辿り、事件当時を思い起こし、二二八記念館では実際に体験された方の貴重なお話を伺うことが出来た。また、12月24日には、映画『悲情城市』のロケ地となった九份にも足を運んだ。
当時の地図。赤い線はデモのルート
現在の天馬茶房
彰化銀行台北支店
現在の行政院
二二八和平記念公園の入り口
デモ参加を募るビラ
記念碑
デモは膨れ上がりながら南へ進み、台湾省専売局台北分局を通る。ここは、当時台北地区で煙草や酒の専売業務を行っていたところである。警備の警官と衝突し、市民は破壊活動を行い国民党政府への不満を訴えた。現在は彰化銀行台北支店になっており、当時の面影はない。
さらに南に行くと台湾省専売局総局がある。デモの目的はそこへ抗議文を提出することであったが、事前の知らせが入っていた総局はもぬけの殻であった。そのため、彼らは台湾省政府庁舎に向かう。ここは、台湾行政長官兼警備総司令であった陳儀(チンギ)の務める行政長官公署であり、現在では、台湾における最高行政機関である行政院となっている。デモの大群が庁舎に押し寄せると、屋上から機関銃掃射が行われた。これにより多くの死傷者が出てデモ隊は後退した。建物は日本統治時代に建てられたものを現在でも使用しているので、二二八事件時と現在では変わっておらず、機関銃が据えられた屋上も視認することが出来る。
後退した市民はそれだけでは終われず、近辺にあったラジオ放送局に押し入り呼びかける。「台湾人よ立ち上がれ!」これにより暴動は台北市のみならず、台湾全土に広がることになった。その占拠されたラジオ局が、今では台北二二八記念館となっている。
二二八記念館では、二二八事件に関してのみならず、第二次世界大戦下の台湾についても当時の道具や文書を交えて紹介されており、今回二二八記念館で私達のガイドをしてくれた男性は、第二次世界大戦を日本兵として戦い抜き、二二八事件当時は新聞記者として取材を行っていた、まさに生き証人と呼べる方だった。義父が二二八の主導者の一人だったという彼は捕えられ、拷問を受けた後に処刑されるギリギリで助かったそうだ。実際に体験したからこそである切実な表情が、私は忘れられない。
二二八事件の終結は、大陸から派遣された軍隊も加わった行政側の徹底的な弾圧によってもたらされた。この事件での正確な死傷者数は今でも分かっていない。その後長らく続く独裁政治下では事件について論じることは一切許されなかったが、1980年代後半から民主化が進むと事件が見直されていった。そして、1997年、台北新公園を二二八和平記念公園と改名し、犠牲者を追悼する記念碑が建てられた。記念碑碑文には事件の経緯が刻まれており、若い世代へ受け継がれていくのだろう。平和について今一度考えさせられた一日だった。
ガイドの話を聞くスタジオメンバー