今回のSVで私たちは、86年前の1930年10月7日、日本統治時代に最大の抗日事件—「霧社(むしゃ)事件」が起こった場所を訪問した。12月18日に台中を経由して霧社(現在の南投県(なんとうけん)仁愛郷(じんあいきょう))に行った。実際に事件が起きた場所を訪れるに当たって、少しでも事件についての知識を深めようと、私たちは事前にスタジオで事件について学習した。「ガヤと霧社事件」(邱建堂2010)と「霧社事件研究の課題」(呉密察2010)という二つの論文を通じて事件の背景や原住民の知識を深めた。
集合写真
仁愛郷入り口
霧社事件の起こった小学校跡
霧社事件とは、台湾原住民族であるタイヤル族のリーダー、モーナ・ルーダオと周辺の6つの部落による蜂起で、原住民たちが霧社公学校で行われていた運動会を襲撃し、駐在警察は元より女性子供に至るまで130名あまりの日本人を殺害した事件のことである。蜂起した原住民たちは山に籠もってゲリラ戦を展開し、毒ガス弾を繰り出してくる日本軍と戦い続けたが、結局700名余りが死亡、500人ほどが投降した。その後、強制移住、処刑、味方蕃による襲撃(第二次霧社事件)によって、部落は壊滅状態に陥った。
1895年から始まった台湾の日本統治であったが、その強引な統治が数多くの抵抗と悲劇を生んだ。「霧社事件」は様々な抗日事件の中で有名な事件の一つである。
台湾には現在、アミ、パイワン、タイヤルなど政府から公式に認定された16の原住民族がおり(さらに現在申請中のものが数集団ある)、台湾総人口の2%(約56万人)を占める。台湾原住民は、戦前は大きく平埔(ヘイホ)族と高砂(タカサゴ)族(あるいは高山族)の二種類に区分された。これは清朝時代の「熟番」と「生番」の二大分類に淵源がある。「熟番」とは清朝に帰順した人々、「生番」はそれ以外の中国的な影響を受けていない人々を指した。日本の植民地政府もこの区分法を踏襲して、「熟蕃」「生蕃」区分を戸籍に登録させたため、このような分類法が定着した。これら台湾に居住するオーストロネシア語族の細かな、しかも網羅的な、民族分類が研究されるようになったのは、日本統治時代に入ってからである。原住民の分類は学者によって様々であるが、原住民の内部の民族分類は、原住民自らによるものではなく、あくまで外部の研究者や政府が規定したものである。そのため、近年では原住民自らが申請して独自の民族として承認を求めるようになり、霧社事件を起こしたセデック族も2008年にタイヤル族から独立して第14番目の民族として承認された。
この事件を題材にした映画「セデック・バレ」(魏徳聖監督、2011)は台湾で上映され、大ヒットを記録した。
この事件の背景は当時の原住民社会の様々な問題にあり、単純に一つの原因を挙げることは出来ない。
1. 過酷な労役
霧社分室管内では事件が発生するまでの3年間にわたって、建物の建築、修繕、道路の 補修など様々な工事に原住民に義務労働として出役させていた。本来原住民は自由を尊び、束縛されるのを嫌っていたが、日本側は原住民の狩猟農耕時期や伝統を顧みることなく労役を強制した。例えば、木材運搬の労役の際、原住民は引き摺って木材を運ぶ習慣があったのだが、日本当局は木が傷むのをさけるため、この伝統的な方法を許さず、肩に担いで運ばせた。このようなことは彼らにとって大変な苦痛であった。
2. 日本人と原住民の間の女性問題
日本人と原住民との間の女性問題もあげることが出来る。原住民の日本への反抗心を和らげるために原住民女性と日本人警察官の結婚が奨励されたことがあったが、やはり文化の違いや支配者と被支配者の関係のために、多くの場合結婚生活は上手くいかず、原住民女性が捨てられたり、日本に連れて帰り醜業につかせたりすることもあった。
3. 生活様式の変化
日本人は原住民の伝統を抑圧した統治を行った。例えば、霧社の原住民族のタイヤル族は、代々、狩猟と粟、陸稲の栽培をおこない生活していた。しかし、日本当局は彼らの一部を高地から川に近い平地に移住させ、今までの焼畑農耕から水稲農耕に転換させた。水稲の定地耕作は、水利を開き、田畑を耕し、苗を植えなど様々な作業がありとても忙しく、大量の人手が要り、とてもつらいものであった。こうして伝統的な農耕方式や狩猟の習慣は次第に解体されていき、市場交易の意識が形成され、タイヤル族の固有の文化が段々と消滅していった。
以上のことによって原住民たちは反日感情を高めていき、結果として霧社事件が勃発した。
この事件が与えた影響は台湾にとどまらず、日本国内まで衝撃を与え、当時の国会でも問責問題になった。その結果、台湾総督、台中州知事、警務局長などの関係者はすべて引責辞職させられた。この事件をきっかけに台湾総督府は、原住民に対する差別的な政策を見直した。
戦後、台湾を統治した蒋介石・国民党政権は徹底的な日本否定を行った。そして「霧社事件」を、「日本の圧政に対する抗日運動をした英雄的活動」と讃え、蜂起の指導者たちにも「抗日英雄」の称号を与えた。そしてさらに、霧社にあった日本人の殉難記念碑を破壊し、抗日英雄を讃える石碑まで建てた。日本に対する反抗心を煽り、彼らを自らの統治に利用したのであった。しかし、1990年代以降、台湾民主化の動きが高まると、台湾史への再認識がブームとなった。そのブームの中で原住民文化への再評価が行われるようになると、霧社事件は原住民族のアイデンティティーを賭けた戦いとして位置づけられるようになった。事件から86年という気の遠くなるような歳月が経過した現在、強制移住や処刑による証言者の減少など、さまざまな要因が絡み合い、事件の真相を究明するのは非常に難しいと言われているが、霧社事件は植民地台湾の歴史だけでなく台湾原住民の歴史を明らかにするうえでも、重要な位置を占め続けている。
モーナ・ルーダオ祈念像
霧社原住民抗日像