私たちは、台湾でいくつかの夜市や朝市に行った。私自身は夜市に6回、朝市に4回行ったが、どこの夜市も規模や売っているものが様々で、それぞれ特色があった。ほとんどの夜市は毎晩開かれ、地元の人々や観光客で日本の夏祭りのように賑わう。夜市は地元の若者と観光客、朝市は少し年配の地元の方が多い印象だった。ここではそれぞれの夜市の特徴と、夜市の歴史に関する白水紀子教授のコラムを紹介していきたい。
○士林(しーりん)夜市
台北の士林駅の近くにある、台湾最大の夜市。とても広く、食べ物はもちろん、洋服やお土産を売っている店も多い。特に台湾名物のパイナップルケーキを売っている店が多かった。士林駅は国立故宮博物館行きのバスが出る駅なので、観光客が多く訪れるのだろう。私は友達と一緒に、スージャという台湾原産の冬が旬の果物を、格安で6つも買ってしまった。
○寧夏路(ねいかろ)夜市
台北駅から比較的近い観光夜市。あまり規模は大きくないが、台北を歩き回った後に行くのに丁度いい夜市だった。売り物はほとんどが食べ物だった。私はフルーツジュース屋で、スターフルーツとサトウキビのジュースを買った。
○雙城街(そうじょうがい)夜市
台北の民権西路駅の近くにある。規模は小さく、売っているものは食べ物だけだが、気軽に行ける雰囲気があり、ホテルからも近かったので何度も行った。朝昼も、店を入れ変えてやっていた。果物を売っている屋台で、いろいろな南国のフルーツにトライしてみた。
○臨江街(りんこうがい)観光夜市
台湾一の高層ビルTaipei101から歩いて行ける場所にある。食べ物も売っているが、若い女の子向けの服屋がたくさんあった。洋服の値段は、日本と比べるとかなり安かった。服を売っている店が多いという点で、他の夜市とは違う印象を受けた。観光夜市だからか、食べ物の値段は比較的高かった。
○廟口(びょうこう)夜市
基隆にある。蚵仔煎(オアチエン・牡蠣のオムレツ)や天婦羅、魚丸湯(ユーワンタン・つみれスープ)など、港町ならではの海鮮料理がたくさんあった。名前のとおり、市場の中に廟がある。
○花園夜市
木・土・日曜だけ開催される台南の夜市。とても大きく、どの夜市よりも賑わっていた。食べ物や洋服、スマホケースや財布、アクセサリーなどの雑貨が売っていた。台北の夜市に比べ、食べ物も服も安く買うことができた。
○七堵(しちと)市場
台湾北部の七堵駅の近くにある。平日の昼であったにも関わらず、たくさんの買い物客がいて活気があった。食べ歩きができるものは売っていなかったが、肉や果物、魚を売っている店が多かった。特に肉屋には、肉の大きな塊や鳥が吊るしてあったり、豚足や鳥の足がそのまま並べられたりしていて衝撃を受けた。
○清水街
台湾北部の淡水にある。観光客がよく訪れる淡水老街より一本上にある通りで、地元の人が食材や衣料品などを買いに来そうなところだった。魯肉飯や小籠包などを食べることもできるが、果物や肉、魚が豪快においてある店がたくさんあった。日本の百円ショップDAISOもあった。
永楽市場
台南にあり、午前中に地元の人々で賑わう市場。食べ歩きができる店がたくさんあり、台湾ならではの食べ物がいろいろ楽しめる。市場の中を通るオートバイの多さに驚いた。
夜市は台湾を代表する観光名物になっている。その歴史を振り返ってみよう。
戦後の国民党政府の夜市に関する政策は「取り締まり」と「指導」の間で揺れ続け、そのために夜市で商売をする露店商に対して、社会のイメージも常に矛盾を含んだものであり続けた。政府は露店商に対して、戦後から一九七四年までは、管理規則を定めて登録制度を設けたが、実際にはその対象が主として政治・思想の取り締まりを目的とした書籍販売に限られ、露天商の存在自体に対してはほぼ完全な放任の態度をとっていた。というのも、戦後台湾に移民してきた人々の就業問題の解決に露店商の存在は大いに役立っていたからである。続く七四年から八〇年の間は、特に道路交通管理の面から夜市の取り締まりが強化され、営業許可証も貧困者及び身体障害者に限って与えられるようになり、一種の社会福祉の意味合いをもつようになった。しかし一方で、政府は露天商の存在を一時的な現象だとみなし、将来国民所得が一定の水準に達すれば、自然に消滅するだろうという楽観的な態度をとっていたため、無許可の露天商の活動を黙認し続けていた。その背景には、夜市は台湾経済の歴史からみると、絶えず商品の更新をはかる現代経済の活性化の役割を果たし、流行遅れの商品や返品、キズもの、在庫品など二級品や処分品を回収して商品を全島隅々まで行き渉らせる役割を担っていたからである。さらに加えて、政府は営業許可を持たない工場の存在を放任していたため、そこで生産される廉価な製品を売る役目も夜市が果たすようになり、露天商は伝統市場と資本主義経済体系の間の橋渡しの位置を占める、当時の台湾経済には不可欠な存在でもあったのだ。ところがその後、露天商は政府の予想に反して増加の一途をたどり、八〇年代に入ると、夜市の存在は公共秩序(環境・衛生・交通)を乱す都市の深刻な社会問題となっただけでなく、一般商店との競合が激化し始める。そこで政府は民間業者からの不満と圧力に答えるために、再び無許可の露店商の取り締まりを強化し始め、このころのマスコミの報道によって、夜市は落後、反進歩、不当な商売の場としてのイメージが定着していった。規制は八〇年代の後期に再び緩み、戒厳令の解除によって台湾社会が急激な民主化を進めていく中で、夜市は再び活気を取り戻し今日に至っている。二〇〇八年の行政院の調査によれば、露天商の数はその二〇年間で約三〇%増加し、夜市で働く人々の学歴も上り、動機も多様化してきているという.
近年では、行政主導でエリアの整備が行われ、国内外の観光客をターゲットにした大型夜市へと変貌を遂げている夜市もある。夜市は台湾の庶民の文化の象徴であり、郷土の文化・価値観・人間関係を具体的に体現する場として現地の人々から歓迎されているばかりでなく、台湾を代表する観光名物にもなっている。