ソウル市内のあちらこちらや鐘路を歩くと赤レンガ造りの建物が時々目につく。ほとんどは近代に作られたものであり、日本人と関わりが深いものもたくさんある。近代に作られたものはレンガの作り方の違いから焦げ茶色をしている。
鐘路
西は徳寿宮から東は東大門に繋がる一本道、鐘路は朝鮮王朝の時代から残る道であり、600年以上の歴史が刻まれている。景福宮の光化門や昌慶宮、昌徳宮など歴史的な場所や仁寺洞、廣場市場、東大門市場などの観光地にも繋がる道である。さらに、南には南大門、北には光化門に繋がる道が枝分かれしていて、日帝時期に造られた南大門路にも繋がる。
NH農協銀行 鐘路支店
この建物は、1926年7月5日完工、植民地時期に東亜日報・朝鮮日報とともに3大民間新聞の一つであった朝鮮中央日報(1933〜1937)の社屋に使用されていた。
1936年8月13日付け新聞にベルリンオリッピック・マラソン競技優勝者である孫基禎選手の写真を載せる際、日章旗を消した事件は有名である。この事件によって東亜日報とともに処分を受けた後、1937年に閉館した。
1970年からは農協中央会によって使用され、2002年ソウル特別市告示で第2002−27号により建物全面原型保存を要する近代建造物に指定され2003年に増築された。側面の写真でわかるように増築されている部分はレンガの色が違、その境界線がはっきりしていることがわかる。
天道教中央大教堂
この建物は義菴孫秉煕の管理下で、1918年に着工、1921年に完工した天道教の大教堂である。ここでは、天道教の宗教儀式の他に各種の政治集会・芸術公演・講演会などの一般行事も開催されてあって、比較的大きくて雄壮だったため明洞聖堂、朝鮮総督府の建物とともにソウル市内の3大建築物と呼ばれた。この建物は、3・1独立運動の前後に建てられ、天道教の 報国安民の旗印を象徴する場所にもなった。赤レンガを主材料に花崗石と混ぜることで、色彩と質感の調和が優れていて、韓国の近代建築では珍しいセゼッション様式の建物である。これは、中村輿資平がドイツ人建築家Anton Ferrerを雇ったことで、ドイツの建築思潮に触れたことが大きな影響を与えたためであった。現在は、ソウル特別市有形文化財第36号に指定されている。
大韓医院
この建物は、大韓帝国(1897−1910)時代の韓国の衛生および医療の中枢機関であった大韓医院の本館の建物である。
大韓医院は1907年3月、既存の国立医療機関である廣斎院と国立医学教育機関である医学校およびその付属病院、そして大韓赤十字病院を統合して議政府直轄として設立された。以前、含春苑跡に位置している大韓医院は度支部建築所が設計し1906年8月に着工、1908年10月に開院した。1910年日本統治により朝鮮総督府医院本館になった。患者数の増加によって一時期1階は外来診療所として使用された。また、1916年から1928年までは京城医学専門学校の学生たちの臨床教育現場としても使用され、京城帝国大学医学部の出帆として、1928年からは京城帝国大学医学部付属医院の本館として使用された。光復後には国立ソウル大学校医科大学付属第1病院本館として、そして、朝鮮戦争後にはソウル大学医科大学付属病院本館として使用した後、1978年特殊法人ソウル大学病院として体制を整備し、本館を新築・移転した後、現在は医学博物館として使用している。
1979年国家文化財として指定されたこの建物は、中央に大蒜の花の形をした丸い屋根(ドーム)をのせた四角いバロック風の時計塔とルネサンス様式の壁面、ノルマン風の玄関など多様な近代西洋の建築様式が美しく、異彩に折衷した草創期西洋建築物の一つに数えられる。1954年と1982年の2回に掛けて全面的な改修・補修作業をし、1999年は時計塔の時計原型を復元し、日本統治によって銅製の屋根がはぎ取られたが、2001年1月に復元工事を終えるとともに大韓医院設立当時の姿を復元した。
(石碑の説明書きより一部引用)
韓国の近代医学の歴史は日本人と大きく関わっており、この建物と記念碑や像もそれを物語っているのがわかる。
남산골한옥마을
(南山韓屋村)
1980年代ソウル市内の急激な地価上昇によって昔の家屋が土地の経済的利用の障害となるとされ、一部の伝統家屋の持ち主は文化財指定を解除して自由な財産権行使を要求するようになった。
また、持ち主がほぼ放置状態においていた家屋は崩壊の危険すらあったので文化財保存の点においても深刻な脅威になっていた。
これらを解決するために 1990年に始まった “南山元の姿に戻す事業”の一環で伝統家屋を移転し南山韓屋村を造成して1998年に開場した。
해풍부원군 윤택영택 재실
(海豊府院君 尹澤榮宅齋室)
一般住居ではなく、尹一家の齋室=祭室(祭祀を執り行う専門の部屋)だった。尹澤榮は純宗の妃の純貞考皇后の父である。昔の名前は“再基洞丁 葉家”だった。現在は“南山元の姿に戻す事業”の一環として1996年造成され、南山韓屋村に移され保存されている。
この家屋は尹澤榮の娘が1906年東宮継妃となり、その翌年皇后になり景福宮に入った時建てた家と伝えられている。家屋全体の雰囲気は住居というよりは祭室の中心に建てられていた。この家屋は、純宗が祭祀に来たときの不便を減らすために慶運宮をなくす時出てきた部材を利用して建てたものである。
サランチェ(사랑채=主人のための棟)・母屋(안채=その家族が生活する棟)・祠堂棟(사당채)を含んだ全体の建物の配置は現存する伝統韓屋の中で最も独特で、“元”字形からなる吉祥文字になった。“元”字形配置の北側に相当する “一”の場所は、一段高くなっており、一つの祠堂を構えている。祠堂の南の一段低い場所には“元”字の“兀”字形をなす、母屋・サランチェ・行廊棟が構えている。“元”の西側が母屋、東側がサランチェに当たる。
祀堂は1960年の「4・19革命」の際に焼失したが、このたび再建した。祀堂の前に二段の石段を築いて花をイメージした。
오의장 김춘영 가옥
(五衛將 金春永家屋)
朝鮮末期訓練都監の砲手であった金春永が建立した。現在の南山韓屋村に移す前文化財指定 名称は“三淸洞 金洪基家屋(삼청동 김홍기 가옥)”だった。金春永は金洪基の祖父である。
金春永家屋は元来“ㄷ”字形の母屋(안채)と“ㄱ”字形のサランチェ(사랑채)が一並びに繋がった家で、限られた敷地を効率的に活用している。当時の改良都市型住宅の配置方法がわかる。
韓屋の地下にはオンドルがあるため、家屋内の床の上の家具には全て脚がついている。台所のかまどの焚口はオンドルの入り口にもなっている。台所の壁に掛けてある木の台は食事の際に一家の成人男子が一人一台使ったものである。台所は地面の作業場と家屋の床と同じ高さの作業場がある。火を使う時は一段低い作業場で、そしてそのままその火をオンドルに利用する。
寝室の衣文掛けには天井に吊るされる長い木の棒を使った。
부마도위 박영효 가옥
(駙馬都尉・朴泳孝旧屋)
ソウルの八大家のひとつに挙げられているこの家屋は、 朝鮮第25代王の哲宗の後宮・淑儀范氏の娘・永恵翁主の夫である朴泳孝が住んだ家で、鍾路区寛勲洞にあったものを移転しました。開城(ケソン)を中心とする地方独自の作りをしており、ソウルでは珍しい形の住宅です。長台石を使用した基壇(建物の基礎となる壇)に7列の架構、6間の台所などから、当時の大家の面影を感じることができます。
この家屋は、母屋(안채)、サランチェ(사랑채)、別棟(별당채)、大門郭(대문각=門のある棟)、行廊棟(행랑채)で成立している。ㄱ字型の母屋にㅡ字型の行廊棟が付いていて、台所と奥の間は同じ方向を向いている。母屋の他は取り壊してなくなったものを移建する際愛体、別堂体だけ復元した。
은현궁
(雲峴宮)
雲峴宮は李朝第26代の王高宗(고종)の生父、興宣大院君李昰應の邸宅で、高宗が誕生し即位する前12歳まで過ごした潛邸でもある。雲峴宮という名前の由来は、当時雲峴宮の北側に大きな峠があり、その峠の上にはいつも雲が、また峠のふもとの方にも霧がよく出ていたことから雲峴宮と呼ばれるようになったと言われている。 現存する雲峴宮の建物は、格式や規模からみて宮室の内殿建築に近い。平面的な特徴は、それぞれの建物の東側を南北に横切る「月廊」で連結させた点から由来するものということが言える。別堂である二老堂は簡単に男子が勝手に入り込めないよう、外から直接の出入り口がない極めて閉鎖的な「口」字形をした建物である。老樂堂と廊下で繋がれているだけの、内密な建物であった。
老安堂は雲峴宮のサランチェにあたる。全体的に「丁」字形の建物で、興宣大院君が国政を議論した所。興宣大院君の生存時、政治政策の議論が多く交わされた建物がこの老安堂。老安堂は、その名のとおり、『老人を安らかに』という意味がこめられていて、論語からとったものだと伝えられている。
雲峴宮の中心的な建物が老楽堂で、高宗と明成皇后の嘉礼(ガレ)が行なわれたのも、ここである。
雲峴宮正門の右側に位置し、雲峴宮の警備と管理を担当していた人々が詰めていた所が守直舎。
雲峴宮はドラマ『宮(クン)』の舞台になったことでも有名。実際の撮影は雲峴宮を模したセットで行なわれた。実際の雲峴宮は屋根の継ぎ足しが目立っていたように感じた。
가회동 백인제가
(嘉曾洞 白麟濟家)
この家屋は朝鮮の高宗11年(1874)4月20日王室の甥の韓相龍が鴨綠江の黑松を制裁して作られたと伝えられている。
一大門を置いた行廊棟(행랑채)と行廊の庭(행랑마당)、中門を置いた中門間行廊棟と母屋が連続“□”字形の中庭を成して、ここに“-”字形サランチェが突出し広い庭を成して、再び別堂が母屋の後に位置している大きい家である。
高い敷地の上に一大門と行廊棟が立っている。行廊の庭の向かい側に母屋とサランチェが連続している。 サランチェの庭に位置したサランチェは前後の退間に連結される部屋とテーチョン(母屋の部屋と部屋の間にある広い板の間)で形成されている。 このサランチェは再び縁側で母屋と連結されて、その間にチャグンバンが位置している。
母屋は中門を通って出入りし中庭は母屋の北側と西側に位置し、母屋は“ㄱ”字形になっている。炊事場、居間、テーチョン、コンノンバン(板の間を隔てて居間と向かい合っている部屋)が皆南側へ向かって一字で配置されている裏庭北西の側には部屋と床になった別堂もある。
경운동 민병옥 가옥
(慶雲洞閔玉家屋)
閔泳徽(1852-1935)の息子、閔大植が二人の息子のために二つ隣り合わせて建てた建物の一つ。閔泳徽は、朝鮮貴族(子爵)であり資産家であった人物。2007年には親日反民俗行為者財産調査委員会によって財産が国家帰属とされ、更には2011年に裁判所が「韓日合併に協力した功績で日帝から爵位を受けた親日反民族行為者」とした。
和信デパートなどの設計者である朴吉龍(박길룡:1898-1943)が設計した。
現在は민가다헌(http://www.minsclub.co.kr/min/index.html)というレストランになっていました。