17日目、農村調査のために約10日間過ごしたコロネル・オビエド市を離れて多くの日系移住者の方が生活をされているLa Paz(ラ・パス)へ向かった。パラグアイを地図上で大きく移動した、走行時間、約6時間半。農村調査と連日の徹夜の作業で疲れていたのか私たちは道中、皆眠ってしまっていたので長距離の移動であったが、睡眠時間に充てることができた。まず、到着したのはラパス日本語学校。そこでは児童の皆さんと、ドッジボール大会やソーラン節披露会などの交流をして楽しんだ。久しぶりの日本語が通じる社会で私たちもリラックスして、楽しむことができた。
その後、パラグアイの世界遺産であるトリニダ遺跡へ。夕焼けを背景としてそびえ立つ遺跡にみんな感動。パラグアイに来て初めて観光地と呼ばれる場所にいっただけありどう楽しめばいいのか一瞬戸惑ってしまったが、ガイドさんの案内を聞いてその遺跡の偉大さを知り満喫することができた。日が暮れるとトリニダ遺跡を後にし、いよいよこのラパス滞在中にお世話になるご家族の方々との対面。素敵な歓迎会を用意してくださっていただいた。中華おこわ、ゆかりおにぎり、巻き寿司、サラダ、おでん、お味噌汁、漬け物など、私たちが滞在中食べたいと言ってやまなかった日本食がたくさん用意されていて、日本語でコミュニケーションをとれる食事の場は心の底から楽しむことができた。お腹いっぱいになった私たちは、感謝の意味を込めて「ふるさと」をアカペラで合唱した。催してくださった歓迎会に見合うだけのお返しができたとは思っていないが、皆さんが喜んでくれたようで良かったように思う。その晩からはそれぞれ分かれてラパスの家庭に受け入れてもらいホームステイさせて頂くことになっていたので、各家庭でお世話になった。私が泊まった家庭では帰宅すると五右衛門式のお風呂を沸かしてくれて、湯船につかることができた。まさかパラグアイで湯につかることができるとは考えていなかったので、そのおもてなしが嬉しかった。その晩は用意してくれたベッドでぐっすり眠ることができた。
18日目、朝起きると、ホームステイさせて頂いた家庭でそれぞれ朝食を頂いたのだが、私の宿泊した家庭では日本食の朝食を食べることができてとても幸せであった。日本でも一人暮らしをしている学生にとっては朝からご飯とみそ汁と漬物と納豆が並ぶ健康的な食卓はほとんどないので、ここでの食事は嬉しいものだった。ラパスでの活動2日目は、メンバーそれぞれのご家庭に集合場所まで送っていただいた。何から何まで至れり尽くせり本当にお世話になって、有難い限りである。一晩会わなかっただけでも今まで20日近く寝食を共にしたメンバーと離れると心なしか寂しい気持ちがあっただけに合流するのも楽しみでもあった。 その日は朝からピラポ市の市役所を訪問した。ピラポはラパス同様の日系移住地である。ピラポ市長やJICAの協力隊の方たちに、貴重なお話を聞かせていただいた。ピラポ市の人口の八割はパラグアイ人なのだが、ピラポ市長やピラポ市議会議長は日系の方が務めていて、地球の反対側でも日本人が地域のリーダーとして活躍されているのはすごいことだと思った。ピラポでは日系人とパラグアイ人との経済格差が広がっている問題があることや、時代背景や打開策なども話してくださり、貴重なお話を聞くことができた。また、協力隊のプロジェクトの一つで活動しているミシン工房にもお邪魔させていただき、ピラポ市の農協についてもお話を伺うことができた。 お昼は数名の学生は現地の方と食事をご一緒させて頂いた。日本語でフランクに世間話ができるのでとても安心できる食事の席であった。午後は敬老会の方々と交流会をした。2時間ほどパラグアイ入植のお話を聞かせてくださった。 本当に大変な苦労をして今の生活を手にいれていらっしゃることと思うが、とてもいきいきと当時のことを話してくれるのが印象的であった。そして皆さん、パラグアイに来て良かったという言葉をおっしゃっていた。日本舞踊や習字、太鼓なども嗜まれるようで、日本にいる私たちよりも日本の文化を大切にしている皆さんに驚いた。私たちがそこで披露した歌やソーラン節も喜んでいただけてとても実りある会となった。 ラパスはのどかな地域で、移動中にバスの窓から外を眺めるとどこまでも広大な畑が続いている。ビルだらけの横浜とは大違いで、本当に空が広い。ここの土地は移住者の方が原始林を一から切り拓いて耕したものだと伺った。私たちには察しきれないような大変な苦労があったのだな、としみじみと思った。夜はまた、各家庭で晩御飯をいただいた。家族の皆さんと一緒に食卓を囲んで本当に家族の一員となった気分であった。
19日目、数名の学生と藤掛教授は午前中はFrutikaというジュース工場を訪問し、残りの学生は日系移住資料館とラパスの製粉工場に案内して頂いた。ジュース工場は35年前にグループ企業として創設され、最初は野菜の加工だけでおこなっていたがその後、安定した生産を得るために柑橘類の栽培の可能性を見出し、単一栽培から多品種化をおこない、16年前に今のfrutikaという工場になったのだという。この工場はドイツ人女性によって創設されたもので、パラグアイ全土の小農家3000世帯と契約を結び、果物を買い取りそれらを加工してジュースとして出荷している。シングルマザーなどの雇用にも力を入れており、研究するにおいてはとても興味深い話を聞くことが出来た。移住資料館では貴重な移住の資料や写真を見せていただいた。入植当初は本当に何もない木々の生い茂った土地であったということや、その木々を切って開拓し今ある生活を手に入れているということをお聞きして、率直に感銘を受けた。同じ日本人ではあるがその努力の歴史を見て、日本人を尊敬してしまう自分がいた。 ラパス農協の訪問では、現地で収穫された小麦から小麦粉を作る工場であった。想像していた以上の大きな工場で、そこで作られた小麦粉には自らランク付けがなされ、ブランド化されていた。日本人がこの地で成功していったことを端的に表している施設だと思った。午後は各ご家庭で、それぞれがうどん作りをしたり、近くの町まで連れて行ってもらったり、家族と一緒にお昼寝やスポーツをして楽しく過ごした。私たちが宿泊したお宅では広大な小麦畑に連れて行ってもらい、案内して頂いた。ほぼ平原であるパラグアイでは地平線が見えるのだが、その先まで小麦畑が広がっていて幻想的な風景でもあった。 その後は最寄りのパークゴルフ場に連れて行ってもらい、日系の方たちと対決した。さすがに皆さんとてもうまくまったく敵わなかったのだが、楽しい時間を過ごすことができてよかった。その晩は私の宿泊した家庭ではすき焼きを振る舞ってもらった。毎日おいしい日本食をお腹いっぱいごちそうになり、ラパスの方たちには本当にお世話になった。滞在期間はわずかだったが、ラパスは第2の故郷となった。日本で暮らす日本人が忘れかけている日本人の心もラパスに滞在したことで、行く前以上に蓄積されたことと思う。最後の別れの朝は早朝であったが、車を出してくださり、お弁当もこしらえてくださった。ここで受けた恩はいつかどこかで返さねばならないと感じた。
ラパスに滞在中、各家庭でも聞き取り調査を行った。内容はパラグアイ人のことをどう思うか、日系移民の歴史やご自身の想い、そして日系2世、3世にはどのように成長してほしいかなどである。泊めてもらうだけでもありがたいのだが、私たちのインタビューにも親身になって答えてくださった。日系社会は世界中で見ても特異なコミュニティで特別な社会であるということを耳にしたことがあった。確かにパラグアイであのような日本人の日本文化の社会が続いていることは不思議である。簡単に「努力の賜物」だと一言でくくるには語り切れない苦労の上で成り立つコミュニティであると私は滞在して感じたのだった。