パラグアイSV

0920-0925 イグアスの滝・アスンシオン・帰国

渡航20日目、ついに渡航も終盤に差し掛かってきた。ここからは観光と挨拶回りが主となったが、その中で学びもある日々を過ごせたのではないかと思う。私たちは早朝にラパスを出発してブラジルとの国境の街エステへと向かった。エステへの道中でFujikura Paraguayを訪問させて頂いた。今回ここを訪問したのは大使からのご紹介があったおかげで、普通ではなかなかアポイントメントが取れないのだが今回は特別に訪問させていただくことになった。Fujikuraは東京に本社をもつ多国籍企業で、南米ではブラジルとパラグアイに支部がある。Fujikura Paraguayでは主に自動車部品や光ファイバーケーブル等々の製造等を行っていて、建物内部は大変清潔感があり、大きな工場の中で作業が行われていた。従業員の方々もとても礼儀正しく、忙しくされていたと思うが丁寧に案内してくださった。会社の概要や、人材育成について説明していただき、学ぶことの多い見学となった。特に地域密着型の雇用形態は、普段多国籍企業の現場を知る機会のない私たちにはとても勉強になった。細かい作業が多いため、女性のほうが向いているということで女性が多い社内で、特にシングルマザーを多く雇用していたことには大変驚いた。シングルマザーは自分の生活や子育てに対して責任が伴っているため、その分真剣に仕事をするものが多いのだと言う。 労働者にとっても雇用者にとってもWin-Winの関係で理想的な雇用関係であった。教育の機会がなかったものには学校に行く機会を与えている、という方針も取っていて、とても労働者に対して親切な職場であったので途上国にこんな環境下で経営なされている企業もあるのだととても感心したし、それが日本の企業であったのが嬉しかった。

その後、移動して世界一、二の規模をほこるイタイプダムの見学へ。半分ブラジル、半分パラグアイというダムである。ここからは完全に観光なのであるが、観光地訪問ということで紹介していきたい。到着して、ダムを一周するバスツアーに参加させて頂いた。なんとこのバスツアー、無料で参加することができた。 さすがワールドカップとオリンピックの開催が予定されているBRICsのブラジルなのか、観光業には予算をかけているのだと言う。実際に近くまでバスで移動できてその大きさに一同唖然とした。もはやダムはおろか湖とでもいえるようなスケールであった。 パラグアイは発電をすべて水力発電でまかなっているのだが、ダムのそばにあったその施設の大きさを見て納得ができた。想像を絶するスケールの規模であった。予定ではその後近くにある動物園に行く予定だったのだが、当日はチーターが逃げ出したということで入れず、同じ敷地内にある博物館を見学した。大変詳しい史料館でもあって、パラグアイの原住民の生活様式から独立前後の時代背景、三国戦争、そして現在のパラグアイへと続く歴史を勉強することができた。パラグアイに来る前、先行研究としてパラグアイの歴史を学んでいたのだが、改めて学ぶと面白いことも多く見えてくるのだった。 その日は、そのままブラジルとの国境の町エステに宿泊した。国境の町ということで治安の悪さが懸念されたが、海外での鉄則、「行動は集団で共に」という徹底したリスクマネージメント指導を受けていたので大きな問題もなく過ごすことができた。

21日目、私たちは世界三大瀑布であるイグアスの滝へ向かった。イグアスの滝とはブラジルとアルゼンチンの間に位置する世界最大の滝で、世界遺産にも登録されている。私たちはブラジル側から見るためにブラジルへ入国した。友情の橋を渡って出国手続きと入国手続きを立て続けに済ませ、ついにブラジルへ。パラグアイSVという名ではあるが南米にまで来たのだから、行かない手はなかった。イグアスに到着し、滝へ続くバスセンターへ到着すると観光客で大変賑わっていた。さすが観光名所といったところであろうか。飛び交う言語はブラジルの公用語のポルトガル語がメインではあるが、英語やスペイン語が飛び交っていた。バスで滝へ近づくと徐々に滝の流れ落ちる音が大きくなった。バスを降り、山道を少し歩くと林の隙間から滝が見えた。不思議なイタチのような?狸のような動物も道中歩いていて不思議な生物もたくさん見た。
早足で道を降りて行くとついに第一ビューポイント、滝の全貌が明らかになった。 「壮大」の一言に尽きた。メンバー全員ではしゃいでいると、通訳さんにこんなのまだまだ序の口だと言われてびっくり。更なる絶景を目指し奥へと進んだ。滝を右手に山道を上がったり下がったり、結構な距離を歩き、たどり着いたのは滝の真正面。その日は普段よりも水が多く、滝の勢いも相当強かったようでものすごい迫力であった。ゴミ袋のようなカッパを被って行ったものの、顔やズボンの裾はびっしょり…。それでも滝のスケールに釘付けになってしまった。雨の予報になっていた天気も何とか曇りでとどまり、時々晴れ間も見える程で、一瞬の晴れ間には運良く滝と虹のコラボレーションも見ることが出来たのだった。 わずか5.6時間のブラジル滞在ではあったが、存分に楽しむことができた。

パラグアイに戻り、お昼ご飯はイグアス日系人居住地で頂くことに。そこでなんとラーメンを食べることができました。まさか日本の反対側でラーメンにありつけるとは思っていなかったので、久しぶりに食べたラーメンはこの上なく美味しかった。20個近いラーメンを作ってくださり、さらには手づくりの小豆アイスまでサービスしてくださった日系のお母さんたちはさぞかし大変だったと思うが、私たちが来るからと腕を振るってくれた。大変おいしく頂くことができてとても満足した。夜はオビエド市まで戻り、先生のfamilyの家でアサード&宿泊をさせて頂いた。みんなで楽しい夜を過ごすことができ、大変楽しい1日となった。しかし、その1日気を抜いていた私たちを神様は見ていたのかその夜には同時にすごいトラブルが起きた。先生のfamilyの別荘のようなところで主人の方とも別れ、男子学生はそこで学生のみで宿泊した。深夜未明、そろそろ寝床につこうと思い寝る準備をしようとしたところ、突然バチバチバチバチという轟音が家に鳴り響くともに停電してしまった。なにがなんだかよくわからなかったので、窓から外を見ると、なんと大量の雹が降っているではありませんか。窓ガラスは割れ、雹が家の中に侵入してきて、私たちのかばんは浸水で濡れるという大変なハプニングに見舞われた。トイレも水道も止まってしまい、困って救助を待っていると、主人が私たちの安否を心配したのか様子を見に来てくれた。しかし、元気そうな私たちを確認すると「bien!!(元気そうだね!!)」と笑顔でグッと親指を立て、自分の家へと戻っていった。今となっては笑い話であるがとてもスリルのある経験であった。結局男子はそこに泊まったが一向に眠れずろうそくに灯をともして囲んだ。割れた窓から冷たい隙間風が差し込み、20歳前後の男6人身を寄せ合って震えたあの光景は今思い出すと笑える光景である。パラグアイ渡航終盤にして初めて寝袋が役に立った夜でもあった。後で聞いたところ、パラグアイで雹が降ることは滅多になく、昨晩はパラグアイ全土で停電が起こったり、事故が起こるなどして、大きなニュースになっていたようだ。そんなこんなで明け方にもなると雹も止み、空が明るくなって私たちは渡航22日目の朝を迎えた。

22日目、壮絶な一夜を経験して男子はぐったりしていたが、先生のfamilyの家に宿泊した女子一行は、停電になると「日本から持ってきたお父さんに買ってもらったヘッドライトが役に立つ!」などと、男子の状況とは対照的であったようだ。結局一晩中起きていたため、アスンシオンへと移動するバスの中ではみんな爆睡していた。昨晩の雹のため、いくらか予定は変更され、アスンシオンに戻ったその日は一日フリータイムとなった。再びお世話になる日系福祉センターの方々とスポーツをしたり、食事をしたりするなど、いいリフレッシュタイムを過ごすことができた。

23日目、日本に帰ってからイベントで販売するための民芸品やお世話になった方にお渡しするためのお土産を調達するため、セントロの露店に買い物に行った。ここでも日系福祉センターの青年が案内と通訳を買って出てくれて私たちは本当に助かった。メンバーはそれぞれ、アオポイやテルモ、革製品など、パラグアイを代表するお土産をたくさん購入し、手持ちのグアラニーも尽きてしまうメンバーもいた。ここで仕入れたお土産は国内の学園祭等で展示や販売を行う予定である。是非、手にとって興味を持っていただければ幸いである。その夜は、パラグアイ日本商工会議所の懇親会に参加し、すき焼きを食べた。パラグアイ社会の第一線で活躍する商工会の方々のお話や、私たちのこれまでの渡航の話で盛り上がり、あっという間に時間が過ぎてしまった。 人生の先輩としてもパラグアイの先輩としても多くのことをご教示して頂いた実りある食事会となった。

24日目、遂にパラグアイ滞在もあと1日。この日は、アスンシオン日本人学校へ2度目の訪問をし、私たちがこの渡航で経験してきたことを、写真やムービーを交えて、小学校5.6年生相手にプレゼンテーションをした。苦労あり、笑いありの渡航記を45分で伝えるのは少し短く感じたのだが、私たちの活動を知ってもらえて小学生の子供たちも興味を持ってくれたようで嬉しかった。その後、一緒にご飯を食べて短い間だったが、楽しい時を過ごすことができた。 アスンシオン日本人学校をでた後、その足で在パラグアイ日本大使館へ。神谷大使には、私たちがこの渡航で得られたことを報告させて頂いた。私たちの活動を見守ってくださって本当にありがたく感じるところである。その後Ecocultura(エコクルトゥーラ)TVの取材を受けた。藤掛教授が代表を務めていらっしゃるミタイ・ミタクニャイ基金の話や、学生部である私達がどのような目的でパラグアイにきたのか、どのようなことをしたのかなどの質問に答えた。いくらか取材を受けてきたのでちゃんと受け答えできるようになったのではないか、と自分たち自身で成長も感じた。最後の夜は、日系福祉センターに住む青年が働いている日本食レストラン「ヒロシマ」で最後の旅の締めと食事会をした。お世話になった日系社会福祉センターの方々や、通訳さんと最後のお別れ会も兼ねていた。最後には、すべての行程に付き添ってくれた通訳の方や、様々なアレンジに尽力してくださった藤掛先生に学生からサプライズプレゼントを贈った!本当にこの渡航中、藤掛先生におんぶにだっこですべての場面でお世話になった。感謝するにもしきれないほど多くの機会を与えていただいたことや藤掛先生の人脈、すべてに感銘を受けた渡航であったと言える。パラグアイに来て本当に良かった、とその場にいる全員がそう思っていたに違いないだろう。

渡航25日目、ついに渡航最終日。今思い返しても本当にあっという間のパラグアイ渡航であった。帰途はバラバラで、そのまま直帰する者、ペルーへ行く者、ニューヨークへ行く者もあった。本当に日経社会福祉センターにはお世話になった。我々を泊めて下さったこと、そして様々なご縁、経験を与えて下さったこと、センター長を中心とします皆様には感謝の気持ちでいっぱいである。そして、我々のお世話をしてくれた、日系の青年たちとも涙のお別れをした。短い間だったが、旧友であるかのような関係性で悲しさのあまり思わず泣いてしまったほどだった。人々に恵まれた、非常に素晴らしいアスンシオン生活を送ることができた。さよなら、パラグアイ。自然豊かで、かつ人々は前向きで温かいという本当に素敵な国だった。また来ることを心に誓って私たちは日本へ戻っていった。