コミュニティは、どのような空間であるのかという問題がある。私はこのツアーで、いくつものコミュニティを見てきた。そこでジャパンタウン*5が、他のコミュニティと比べ、ある種の特異性を持っていることに気が付いた。カストロ地区*11のLGBTのコミュニティや、ミッション地区*2のヒスパニック系移民のコミュニティなどは、どこか閉鎖的な印象を受けた。アメリカという大きな国を母体にして、その中に自分たちの生活範囲を定めているように思った。コミュニティの中にいる「彼ら」は活き活きとしていた(ように見えた)。しかし、そのひとつひとつのコミュニティは、外部に対してどこまで自分らの存在感を示すことが出来るのだろうか。
自分の存在を外に大きく示すことだけがコミュニティのおいての成功だとは思わない。アメリカがかつて人種のるつぼと呼ばれていたように、たくさんの多様性に囲まれている国であるからこそ、「共生」というテーマは無視できない。閉鎖的なコミュニティは「共生」というテーマをどう乗り越えていくだろうか。そのことを考えるとジャパンタウンは、「共生」が成されている場所であると思った。
サンフランシスコのジャパンタウンは、日本を再現した町という観点でみると不完全な部分も多い。そこは、外部から見た日本のイメージを具体化した町のようであるからだ。日本町であるのに韓国のお店がちらほらとあるのも印象的だ。しかし、ジャパンタウンに来ている人たちは実に多国籍であった。日系の人たちばかりではなく、様々な人が来ていた。お店で働く人においても、同じことが見て取れた。この点がまずひとつ、他のコミュニティとの違いである。ジャパンタウンはその中において、構成されている人種の多様さという意味でアメリカ社会に溶け込んでいるのだ。
この事実をどう受け止めるべきであろうか。日系コミュニティのアイデンティティーの希薄と受け取ることももちろん出来るだろう。アメリカ社会と「共生」するには、自分たちのコミュニティに対して、ある程度の妥協が必要になってしまうのか。しかし、私はそうは思わない。
ジャパンタウンにおいて私は、日系アメリカ人の高齢者が暮らすkimochi*7ホームという老人ホームとNational Japanese American Historical SocietyというNPOを訪ねた。このようなコミュニティの中の「個」に目を向けてみると、そこからは各々がコミュニティを大切に守っていく姿を伺うことが出来た。そこでは、彼らがそのコミュニティに属していることへの誇りを強く感じた。そして、決してコミュニティというものが失われている訳ではないと思った。
日系のコミュニティは今、決して大きなコミュニティであるとは言えないだろう。しかし、コミュニティの大きさは問題ではない。どんなに小さくても、コミュニティはアメリカ社会を構成するうちのひとつの存在であるのだ。サンフランシスコに行って思ったことのひとつに、この国は、そしてこの地域は、自分が何者であるのか、自分のルーツは何なのかということをはっきりと理解している人が多いということがある。その「意識」そのものがコミュニティを成り立たせているのだろう。アメリカは、7/4を独立記念日(インディペンデンス・デイ)として盛大に祝っているが、こうしたものにおいても自分らを「アメリカ人」だと思う「意識」が関係しているのだろう。
だから、コミュニティはアメリカを物語っていると言えるのではないだろうか。そして、今後「アメリカ」を構成し続けていくのもまた、ひとつひとつのコミュニティ、そしてその「意識」であるのだと思う。