アメリカSV

「戦後」とは―サンフランシスコの視点から

中島 貴之

サンフランシスコ、サンタクルーズにおけるフィールドワークではCode pink、Resource center for nonviolenceの二つの平和運動団体に話を聞くことができた。それぞれがそれぞれの方法で平和運動を展開している。例えばCode pinkは議会へ出向いて反戦を叫び(逮捕されることもある様子)、Resource center for nonviolenceは児童向けの啓発プログラムや軍人向けのカウンセリングを行っている。組織を構成する人々もそれぞれ異なり、Code pinkは比較的高齢の白人女性が中心となった全国的な組織であり、日本にも支部がある。Resource center for nonviolenceの方は地元の大学の元教授やその卒業生も参加しており、地域に密着した組織のように思えた。特徴的だったのは、彼らの活動が「情熱」を基にしているということである。Code pinkのジャネット氏は、自分たちの活動は「passionate」だと語り、サンタクルーズにおいては、Resource center for nonviolenceで平和運動に取り組む人々が自らの活動について我も我もと感情をこめて話しをしていた。この点においては12月のSSで訪れた立川の砂川地区で福島さんに話を聞いた時のことを思い出さずにはいられない。彼女は、幼少期の砂川基地闘争の記憶、米軍基地への恐怖をもとに平和運動を展開していた。一般の市民の手による平和運動の基にあるものは同じなのだ。

こういった平和運動を行う団体と出会ったことで、「戦後」についてはどのように考えることができるだろうか。日本で読んだ林の「米軍基地の歴史」においては、戦後の米軍基地の広がりは、世界的なアメリカ主導の自由な世界経済体制を作り、支えるための航空・海運の世界的なネットワークを維持するための軍事力のネットワーク、とされていた。林はこの軍事ネットワークの広がりを「ワシントンの視点から」描くことで、日本の基地問題を描き出していた。しかし私たちがアメリカで出会ったのは、そうしたワシントンの視点に抵抗する組織であったと言えるだろう。国家の意向で戦争が実行される。その現実に抵抗する、その構造を変えてやろうという思いをきっかけに生れた市民による組織。その抵抗は反戦行動に限らず多岐に広がっていく。直接話を聞けたことで、市民の組織の力強さを肌で感じることができたように思える。

「戦後」がどういった時代であったのか、アメリカではこうだった、日本ではこうだった、と一括りに言ってしまうことはできないのだと思う。それぞれの社会の中で、様々な想いを抱えた人々が当然だが存在していたのだ。その中で国家としてのレベル、市民まで降りてきたときのレベル、様々なレベルでそれぞれが理想とする社会に隔たりができ、その間で交渉が行われてきた時代が「戦後」だと言えよう。特に「平和」に絞ってみた時に、今回のSSSVではその交渉の複雑さがよくわかる。日本においては、戦後の高度経済成長において「もはや戦後ではない」と言われた時代に、米軍基地の恐怖と戦う人々がいたり、米軍基地を生活の一部として消費の対象にしている人々もいたりした。アメリカでは、国家として戦争を行う一方で、その戦争に抵抗しようともがく人々、構造を変えようとローカルな運動を試みる人々がいた。そういった複雑さを内包するものが「戦後」なのではないだろうか。社会は常に複雑なものであるが、一般的な市民の中から(時には学生、時には主婦と、その構成も多様)、政府などに対して物申す組織が出てき始めるところに戦後の特徴があるように思える。普段社会を一面的に見てしまいがちな私たちだが、実はそんなに一枚岩でもないのだということを実感したのが今回のアメリカSSSVであったということができるだろう。