烈士の墓(写真前方)と紀功坊(写真後方)
黄花崗起義とは、1911(宣統3)年4月27日、広州で起きた中国革命同盟会による武装蜂起を指す。蜂起した日の旧暦にちなみ三・二九革命とも呼ばれるこの事件は、黄興らの同盟会員が両広総督(りょうこうそうとく)の官署の襲撃をはかったが失敗に終わり多くの犠牲者を出した。両広総督は中国の清王朝における地方長官の官職名であり、広東省ならびに広西省を管轄地域とし、その軍政・民政の両方を統括していた。この武装蜂起によって多くの志士が戦死し、そのうちの72名を黄花崗と呼ばれる場所に合葬し革命烈士として讃えたことから、黄花崗起義とも呼ばれるようになった。
事件を起こした中国革命同盟会は、1905(光緒31)年に東京で結成された打倒清王朝を目標とする革命団体である。孫文、胡漢民らが1894(光緒20)年に「排満興漢」を唱えてハワイのホノルルで組織した興中会(広東派)、黄興・宋教仁らが1903(光緒29)年に湖南省の長沙で組織した華興会(湖南派)、蔡元培・章炳麟らが1904(光緒30)年に上海で組織した光復会(浙江派)という3つの団体が、宮崎滔天らの斡旋で合流して結成したものである。同会は孫文を総理、黄興を庶務に選出し、三民主義を綱領に掲げた。留学生などの知識人や青年層、会党(中国で民間に存在した秘密結社)や新軍(清王朝末の洋式訓練を受け近代装備を持った軍隊)、華僑などの支持を得て全国規模の組織となっていった。機関紙『民報』で革命の宣伝に努め、またしばしば地方で武装蜂起を行い、辛亥革命を指導した。
黄花岡起義を指揮した黄興は1874年に湖北省に生まれ、1901年に東京に留学して軍事学を研究した経験も持つ人物である。前述の通り1903年に長沙で華興会を組織し翌年には反乱を起こそうとするも失敗、東京へ亡命し孫文らと中国革命同盟会を結成した。以後は南洋華僑への遊説を行いながら会の軍事部門を担当した。
1900年以来、清朝の列強に対する屈辱的な態度に対して各地の反政府勢力は強大になっていき、中国革命同盟会に結集された。同盟会は清朝打倒のために、地方支部との協力体制をもとに1906年よりたびたび地方で武装蜂起を行ってきた。しかしいずれも失敗に終わっていた。そのような状況の中、1910年11月13日にマレー半島のペナンに招集した方針会議にて孫文は黄花崗起義の計画を決定、南洋華僑からの資金をもとに計画は進められた。当初は4月13日に一斉蜂起する計画であったが、同盟会員の温生が8日に単独行動を起こし、広州将軍・孚琦を殺害、また輸送する弾薬が清朝に押収されたことにより武装蜂起の期日の見直しをせざるを得なくなる。結果として清軍の抵抗により敗北を喫し、黄興は広州を脱出。同盟会の中核幹部の百人ほどが犠牲となった。同盟会会員の藩達微が死の危険を冒して回収した72体の烈士の遺骨は紅花崗(後に「黄花崗」に改名。黄花とは菊の花のことで、命をかけて正義を守り屈辱を拒否することの象徴とされる)に葬った。
現在は公園として市民に開かれているこの陵園には、民主主義の実現を目指してその身を捧げた革命家たちが眠っている。今でも軍人や学生、海外の同胞など多くの人々がここに来て烈士をしのび、菊の花を献じて敬意を表している。正門をくぐると菊の花が咲き乱れる道が続き、その突き当たりには七十二烈士の墓がある。その奥にある紀功坊は72個の石でできた革命烈士を象徴するモニュメントであり、烈士全員の名前が刻まれている。その上にそびえ立つのは、自由の女神像である。自由の女神が象徴する自由と民主は当時の革命家たちの理想とよく一致している。
烈士の墓を見守る自由の女神像
この場所に来て私が感じたのは、革命が人々にとってとても近くにあるという事だった。前述した通りここは墓の周りが公園となっており、多くの市民が日常的に訪れている。私が訪れたときも、日が暮れかける頃にも関わらず人々の賑わう声が聞こえてきた。また烈士陵園だけに限らず、その前に訪れた黄埔軍官学校旧址や大元帥府、中山紀念堂などの孫文ゆかりのスポットには老若男女を問わず多くの見学者が見られた。訪問する前は、非常に有名で歴史的に見て重要な場所ではあるがこれほど人気があるとは思っていなかったので少々驚いた。それと同時に、まだ幼い子供たちが熱心に見学する様子に、革命の記憶は人々の間で脈々と受け継がれているのだなと感じた。陵園から見下ろす広州の街は、ここに眠る革命烈士をはじめ多くの犠牲のもとで作られてきたのだと考えると、非常に感慨深く思えた。黄花崗起義の失敗により革命の中心地は広州から武昌に移ったが、それにより武昌の新軍と革命団体が協力体制を強めた事で武昌起義が成功し、辛亥革命が始まったと言われている。革命に命をかけた烈士たちは、今も広州の地でその功績を忘れられる事なく多くの人に知られている。